これは新しいコーナーです。玉木の音楽関係のショートショートとか、小説に現れる 音楽のシーンとかの雑感とかいろいろと掲載したいと思います。みなさんの御意見も 反映したいと思います。
目次
1. 玉木宏樹作、ショートショート<マーラーのふんどし>原稿用紙10枚程度
2. 玉木宏樹作、ショートショート<無窮動> 原稿用紙10枚程度
3. 玉木宏樹作、短編小説<春の声> 原稿用紙40枚程度
4. 玉木宏樹作、評論<村上春樹の場合> 原稿用紙30枚程度
5. 玉木宏樹作、コンサートの乱入者
まずは、玉木が約20年前に書いたざれぶみ<マーラーのふんどし>からどうぞ。 (マーラーファンの方へ、読み終わって怒りのあまり発病なされても当方はいっさい 責任は負いかねます。ねんのため)マーラーのふんどし
ラーーミーーレミラミーーレミラミーー.......
ふんどし一丁でザンバラ髪をふりみだしつつマーラーは、総鏡の仕事部屋で、幻の ウィーンフィル目がけ鬼気迫るタクトを振りおろした。曲は、五楽章まで書き終えた ばかりの「大地のうた」。冒頭のフレーズを彼は、うたうというより吼えながら、あのにっくき第一ホルン、 ウルリッヒめがけ、渾身の憎悪を叩きつけた。
いかにもホルンの好みそうなフレーズ、実はマーラー自身のウィーンフィルへの宣 戦布告なのだ。
彼はふんどしをさすりながら左に向きを変え、音楽嫌いでカード狂いのコンサート マスター、ヘフナーを完膚なきまでやっつけ、次々と各演奏者を血祭りにあげていった。
女狂いのトランペット、ペテルスめ!鈍重なチェロ奏き、ヴェルナーの野郎...... 、暴力的なチューバのゲルデンめ、くそーっ!
スコア上のすべての楽器に呪の唾をあびせ、怒りの炎ですべての倍音を焼きつくす 激しいクレッシェンドで大音響にたかまった怨念の絶頂に、もう我慢ならじと大音声 を発するテナーのフレーズは、表むき中国の詩を独訳したものとなっているが、実は 彼自身が毎日、ウィーンフィルに対して憎悪の限りを尽す罵詈雑言から生まれたもの だった。
もう二度と指揮台に立つことのない今、この陰湿きまわりない創作の秘密を誰が知 るかと思うと、たちまち鋭い絶望感と孤高のオルガズムにもみしだかれ、ウィーンフ ィルに対する死んでも死に切れぬ怨念と憎悪、ウラ返しの度し難い愛惜の情にキリも みされ、汗まみれになりながら無謀な恍惚境をさまよううち、一楽章の半分もいかぬ 所で鋭いさしこみが心臓をつらぬいた。このところ、殆ど二日に一度はおそってくる 死の行進へのヴァンプだ。
彼は意識の混濁と痛みと呼吸困難にむせかえりながら、やっとの思いで主治医の処 方薬をのみ下した。
しばらくは安静、瞑想......。
医者は、心臓のことを思うなら、二度と絶対にウィーンフィルのことをとやかく考 えてはいけないと強く宣言した。全くその通りだ。この業病のすべての原因は、あの ウィーンフィルなのだ......。
絶好調で就任した常任指揮者の地位、それはしかし人格破綻者に近いマーラーにと って、すぐに地獄の揺り椅子となった。根本的に現代曲を嫌う団員へ、自作の交響曲 を押しつけたりする強引さが致命的だった。「第八」の完成直後、マーラーは誰がみてもおかしくなった。その原因は自分自身が 作りだした「第九」への迷信である。
ベートーベンは「第九」で終り、親友のブルックナーは「第九」に着手して死んで しまった、次は自分の番だ、俺は死神にとりつかれているとわめきちらし、練習では 誰彼かまわずタクトを投げつけ、本番では約束とちがう振り方をして団員を困らす。 そんなある日、心臓発作で倒れたマーラー、これ幸いとばかり、石もて追われるごと くウィーンフィルから放逐されたのだった。
主治医は強く体質改善をすすめた。
もともと神秘主義者的なところのあった彼は、東洋医学に凝り、漢方の薬草を愛用 するようになった。
怪しげな解説を読むうちマーラーは、中国人の下着、つまり「ふんどし」が東洋人 特有のスケールの大きい生命力を育くんでいるのではないかと独善的に着目し、それ から毎日フンドシに恋い焦がれるようになったが、その実態は遙としてつかめなかっ た。しかしある日、こ生意気な東洋人の若僧がベルリンに留学していることを聞いた マーラーは、こっそりとウィーンに招待した。若僧は、コサック・山田と名乗った。
マーラーにとっては中国も日本も全く判別つかず、コサック・山田の何度にも及ぶ 、自分は日本人だという叫びにも耳をかさず、マーラーは遂にフンドシの実態をつか むに到ったのだった。無理強いのすえに純日本式フンドシを伝授させられたコサック・山田は、国辱に身 をこがしつつベルリンへ帰っていった。
さて、形態と着用方法は教わったマーラー先生、しかし材質がとんと分からない。 日本人のしきりといっていた「サラシ」など、ウィーンのどこにもなく、マーラーは 手持ちの下着の一番いい材料「ネル」でそれを代用し、よなよなひそかに裁断して作 りあげ、着用したのが初夏のころだった。
東洋式下着のおかげか、再び旺盛な創作欲をとりもどしたマーラーは新しい交響曲 に着手した。しかし不吉な「第九」の番号はさけ、表むき中国詩の独訳をテキストに して「大地のうた」と名づけたのだった。
さて、しばらく横になると心臓もおさまり、気分もやすらいできたが、そのうちに 段々と処方薬の副作用たる全身のかゆみがおそいかかってきた。特に夏の盛りのネル のフンドシの中はむれむれに汗ばんで、線虫の百匹千匹這いまわるような異形のかゆ み......。ふんどしのすきまからムンズと手を差し入れたマーラーは、特にかゆみの集中して いる陰ノウの裏側に爪をたて、汗で柔らかくなったかさぶたをベロリとひんむいて眼 の前にかざした。約一センチのクリーム色のそれは、指でまるめると薄茶色に変色し た。机の角にそおっと置く。明日のひからびた形を見届けるために......。
そのとき妻のアルマがドアを開け、ひとこと「アラまあ」といったきり、あきれは てて去って行った。ふんどし姿のマーラーに何度も嘔吐していたアルマのゆえ、後年 のマーラーを美化して書いた伝記に、ふんどしの話がはいっているはずもない。
さて、平常心にもどったマーラー、いつもの愛唱歌「さすらう若人のうた」のテー マを口ずさみながらトイレに向かった。
便器を前にふんどしの取り外しがまたひと苦労。むんむんにむれ切った性器がだら りと垂れ下がると、そのかげが便器にうつった。それをみてマーラーは即興詩を口ず さんだ。
便器にゆれる 性器のかげが
生の悲哀を かもしだす「さすらう若人のうた」のテーマでうたうと次のようになる。
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何度もリフレインするうちにマーラーは、はっと手を打ち、あわてて便所を出て、 第六楽章にとりかかった。
うんと思いきって生の悲哀をかもしだすのだ。暗ーく、くらーく......。
出来あがった六楽章は「告別」と題され、もちろん中国の詩をあてた。着手するこ とのなかった「第九」へ、自分の人生へ、そしてもっとも憎むべきウィーンフィルへ の「告別」......。
「大地のうた」を完成したマーラーは、静かに死を待った。しかし皮肉なことに一時 的に健康をとり戻した。なぜか精神の平衡さえも回復し、ふんどしもやめ、ごく普通 に「第九」を完成した。それでも彼は死ななかった。安心しきって次の「第十」に着 手したとたん、彼は死んだ。
その後日本に帰り、シューマンの盗作「秋とんぼ」で有名になったコサック・山田 は奇人変人ぶりを発揮し、いつもネルのふんどしを愛用していたという。死の直前に は真性のヌーディストとなり、人前でさえフリチンで応対した。彼の死後、ノートに書かれた次のような戯れ詩が見つかったが、それが山田自身の 作かどうかは判然としない。
1/12/98版
20年ほど前に書いたショートショートが出てきた。文章も内容も大したものではな い。けど、今、自分が携わっている仕事にも多少縁がありそうなのでテキスト化して みた。
<無窮動>
どうだい! さっきからのぼくのプレイ、聞いてる? 絶好調だね!......。こん な気分のいい演奏なんてそうあるもんじゃない。ピアニッシモはビロードの上の玉 露 をころがすようなタッチ、フォルテシモはあのこわいベートーベンが怒り狂って女中 に卵を投げつけるような気分......。
今日みたいにこんなにいい感じでプレイできるなんて、ほんとにぼくはピアノの申 し子なんだと思う。だって四六時ちゅうピアノのことしか考えられないし、ほかのこ となんかこれっぽちの興味もない。
そもそもぼくが物心ついたのも、ピアノのおかげだったんだ。あの時はいったい、 いくつくらいだったんだろう、気がついたらもう先生にバイエルを習っていたんだ。 そしてね聞いてよ、なんと一日でそれをマスターしちゃったんだよ! まさに天才だ よね......。二日めにはツェルニーの三十番もほとんど手中にしたシね。しかしあの 原曲のテンポ指定で弾けるようになるまでには少し時間がかかったけども。
みんな知ってる? あの練習曲、指定テンポで弾ける人いると思う? だいいち弾け た人いるのかなあ。
まあとにかく自分でいうのも変だけど、ほんとにぼくは上達が早かったね。二週間 めにはショパンのチュードもマスターして、三週間めには何と早くも演奏旅行さ。し かし参ったねえ、一般人の趣味の悪さ、程度の低さ。どこへ行ってもリクエストは「 乙女の祈り」や「エリーゼのために」ばかりでさ。夜の部だって、ショパンやドビュ ッシーが出りゃいい方さ。そりゃリストだって何曲かやったけど、あの難しい「超絶 技巧練習曲」なんて誰もお呼びじゃないから、旅のあいまあいまに少しずつ覚えるこ とで充分間にあったんだ。
先生はとっても厳格でね。少しでもまちがえるとそりゃ大変、同じ所を何度も何度 もできるまでやり直し、そりゃ泣きたいほどの反覆でね、ぼくなんか先へ行きたくて ウズウズしてるのに、絶対だめなんだ。
でもぼくも大したもんだよ。一回マスターすると、もう永遠に間違わないもんね。 これは絶対に誇るべきぼくの特技だと思うんだけど、でも人間って不思議だね、こん なことがあった。
ある大都市の郊外にほどよい大きさの気分のよい人たちの集まった、つまり、ピア ノ好きの人ばかり住んでいる町があって、そこで演奏を始めるや、たちまちのうちに 人気が湧いて、毎日毎日押すな押すなの大盛況だった。それでも一週間ほどすると人 波も小さくなって行き、これで最後のつもりの日のことだった。ひたむきな表情で目 に一杯涙をためた一人の少女が、最後まで帰らずにぼくの演奏にかじりついていたん だ。先生が終りだよといっても帰ろうとしない。で、わけをきくとその子「わたしい ま、ランゲの『花のうた』っていう曲やってるんだけど、少しもうまくならないの、 一度でいいから、この子に奏いてもらえないかしら」
実に古臭いそんな曲、誰も注文しないから先生もぼくもびっくりしたけど、演奏は もちろんできる。だからおやすい御用と承知したね。ところがその子の熱意は度を超 えててね、何度も何度もアンコールさ。おかげでたっぷり日が暮れてしまって、やっ とおしまい。その少女、最後にこういったね。「どうしたらこんなにうまく弾けるの ? どうやったらこんなに上手になれるの?」
こんな馬鹿げた質問には答えられないので、先生がかわりにいった。 「そうだな......。毎日毎日、この子の演奏をみて、タッチを研究して、音をよくき いておぼえるしかないね」
というわけで、ぼくらはその少女のためにもう少しの間、町に残ることになったん だ。 話によるとその少女は小学五年生。受験のためにあと少ししかピアノが弾けな いんだという。
ぼくは毎日毎日その少女のために「花のうた」を弾きつづけた。いつも完璧に。は じめのうちこそおどおどと、うらやましげにしていた少女も少しずつ変化して行き、 一週間ほどたつとめっきり明るく自信をもった反応で、先生に大声でいった。 「わたし、どんどん上手くなってきたわ、ありがとう。もう少しね」 それからもぼくは、毎日完璧に弾きつづけた。それなのにどうだ、その少女ときた ら。また一週間ほどたったある日、少女はぼくの演奏を小生意気にも腕組みしながら 聞き流し、最後になんといったと思う?
「この子ダメねえ、いつまでたっても同じじゃない、ちっとも上手にならないじゃな いの、どうしてなの?」
いつも完璧なぼくには、そんな愚問は答えられない。だいいち毎日つきあってやっ たのに、なんという憎まれぐち、先生もカンカンに怒ってるだろうなと思っていたの に先生、ゼーンゼンやさしい声で、全く想像もつかないことをいうんだ。
「そう、いいところに気がついたね。この子の演奏はいつも完璧でいうことなし、だ から変わるとすれば下手になるしかないんだ。その点、君はいいね。毎日練習してい けばどんどん上達するんだから。いつまでもピアノを忘れないでね」
そんな会話を残し、二年たって再びその町をたずねると、その少女はみちがえるよ うに大きくなり、もう子供とはいえない体つきになっていた。とてもキレイだったけ ど、子供のときのあの思いつめたような純粋さは、もうどこにも残っていなかった。 久しぶりのぼくの「花のうた」をきいても、一言、かわってないわねえというだけ。 そんな失礼な言い方にも、先生は苦笑するだけだった。
それからボクらは、世界中のあらゆるところへ出かけた。もう思い出せないくらい 数多く。そしてボクは分ったんだ。演奏はいつも完璧だけど、その場所と雰囲気でき こえ方がちがうということに。ホール、街頭、多勢、一人だけ、それから天候のちが いなんかも大いに左右する。そんな微妙なちがいをあの少女にも知ってもらいたかっ た。今じゃいったい幾つになってることだろう......。
そう、今日はとびっきりいい気分なんだ。さっきから弾きつづけているこの曲の名 前、知ってる? プーランクっていう人が作曲した「無窮動」って言うんだ。先生が お客さんに説明するときの話によれば、ヒッチコックという、こわーい映画を作る名 人が「ロープ」という映画の中で使った曲だって言ってたけど、ボクは映画なんて興 味ないから、なんのことか分らない。
そうそう「無窮動」って、どういう意味かわかる? これは無限につづく運動のこ となんだよ。この曲にはね、終りがないの。つまり先生がやめろというまでは、永遠 に完璧に弾いてなきゃなんないのさ、いつまでもいつまでも。
でも今日のボク、気分は最高だから、いちばんもってこいの曲だね、だって、ずっ とずっといつまでも弾いていたい気分なんだもん、ほーらね、ほーら......。
アレッ! どうしたんだろ! いやだ先生、急にやめないで、音がなくなっちゃった!
なのにボクの体、とまらない、どうしよう!早く、はやくやめなきゃ、どうして先生 やめるって合図くれなかったの、先生、どうしてボクの体、とまらないの? とめて ! とめてえ!
誰もいない倉庫の片すみで男は腕組みをし、少し悲しそうに首を振りながら物思い にふけっていた。
やがてたち上がった彼は、何かをふっきるような様子で手にもったスイッチを押し た。ピアノの前で音もなく無限運動をつづけていた人形は、バラバラにこわれた。
<音楽と小説>更新 1999/3/26日。
この小説は、もう20年以上前に書いた半自伝小説です。かなりおセンチですが、昭和30年ころの神戸や芦屋の雰囲気は良く出ていると思います。
ああ恥ずかしいという部分はかなりありますが。..........
春の声
玉木宏樹
三月の中旬とはいえ、まだ肌寒い。
息も白くなるような霧雨にけぶられ、春は出番を見失ったかのようだ。
「ここだ、ここだ。よかった、先生。まだやってるようですよ」
先生とよばれるにしてはまだ若そうな男は、脂切った中年紳士に引きずられるような格好で、バー「春の声」の前に到着した。
中年の方がドアを押しあけると、カウベルのカランコロンという音と同時に、女の声がとんでくる。
「あら、大山先生、しばらく。外は寒いでしょう」
厚化粧に低い声。年令不詳だが、だいたい人生の半ばあたりだろう。
「やあ、ママ。おそいけど、ちょっといいだろう。珍しいお客さんをつれてきたんだ。こちら、作曲と指揮の大先生、Iさん」
「あらまあ、よくいらっしゃいました。作曲のI先生って言うと、えーっとNHKの大河ドラマの------」
「そうそう、でもそれだけじゃないぞ。いまいちばんの売れっ子だからな。CMは千曲越えたし、交響曲は三つ。ハハハ、変な取り合わせだが------。最近は、クラシックの指揮の方でもデビューしたばかりなんだ」
「まあまあよくいらっしゃいました、こんなところへ。ほんとに外は寒いでしょう。さあさあ、こちらへどうぞ」」
Iと呼ばれた男は、身長175くらい。やや浅黒い精悍な顔つきを、神経質そうなサングラスでかくし、作曲家作詞家、作家、デザイナー、そのどれにでも当てはまりそうな、よくある自由人タイプである。
何軒かのハシゴの末らしく、顔はシラフでも脚元は少しフラついている。 男は女を見た一瞬、ハッとしたような表情を見せたが、たちまちのうちにシラケ返って低い声で言った。
「もう二時かあ、タクシーそろそろつかまるかなあ」
「先生ったらヤアねえ、ついたばかりでそんなあ、まあ、ゆっくりすわってくださいな」
店の中は、壁という壁、一分のスキもなく柱時計や古い刀剣類、SP盤などで飾り立てられ、煩雑なアンティークのムードを出そうとしている。
「ママ、こんどI先生に<春の祭典>をテーマにしたアニメの音楽をやってもらうことになってね、今日、N響のコンサートに行ってきたところなのさ。ママ、<春の祭典>わかるかね」
「ストラビンスキーでしょ。それくらい知ってますよ」
「おっとっと------。じゃあ、題名に<春>のつくクラシックの曲、どれくらいご存じかな」
「まあ、先生ったら、入ってくるなりテストですか------。ヴィヴァルディの<春>でしょ。メンデルスゾーンの<春の歌>、シューベルトの<春の夢>、モーツァルトの<春への憧れ>、グリーグの<春に寄す>それから------」
「ハハハ、演歌専門かと思ってたのに<春>のつく曲だけは気になるんだな。よくごぞんじで」
男は、二人の会話を全く無視して、古びたチーク材の椅子に腰をおろし、奥の方を見て、少し不快な表情を浮かべた。
奥では、酔客がひとりで「昭和かれすすき」をがなりながらマイクと格闘し、その横ではなんと、若い男がヴァイオリンで伴奏しているのだ。
中年紳士は、男におもねるような口調で言った。
「アンティークに演歌ヴァイオリンか、いやはや恐れ入った組み合わせ------。いささか趣味が悪かったかな」
女はすかさず男の言葉を引きとって、奥の方に声をかけた。
「圭ちゃん、いいかげんにして、こちらへいらっしゃい」
圭ちゃんと呼ばれた若者は、演歌の伴奏にうんざりしていたのか、ムッとした酔客をほうりだし、小走りに近よってきた。
蒼白でスリムな体に黒の上下。一見、メフィストスタイルの文学青年タイプだ。
「圭ちゃん、しばらくだなあ。いくつになった?」
「33になりましたねえ」
「じゃ、I先生の四つ下か------。どっちも若く見えるなあ」
「男にお世辞言ってどうするんです。変な先生。それよりも圭ちゃん。こちら、あのI先生よ」
「はい。それはもう、入ってこられたときからわかっていました。こんな近くでお逢いできてお話しできるなんて、ほんとに夢のようです。実はぼく、先生の大ファンでして、先生のレコードやCD、全部もってるし、映画もTVも全部見てます。ああ、ドキドキしちゃうなあ」
本当にドキドキしているのか、圭ちゃんは眼の前のコップの水を一気に飲みほした。
「おいおい、全部見たってのはオーバーだろう。この店にはTVなんかないしさ」
「いえ、ちゃんとビデオをセットしてますよ」
「すごい隠れファンがいたもんだなあ、こりゃ驚いた」
中年紳士は大ゲサに驚いてみせたが、男は全く無視して脚を組みかえただけだった。
「圭ちゃんほどじゃないけど、私も長年のファンでね。先生は、世界に誇るべきモーツァルトの再来といってもいいくらい、素晴らしい切れ味の音楽性をもっておられる。前々から仕事をお願いしたかったんだけど、何をどうやってお願いしようかとずっと考えあぐねてねえ------、しかし今回の企画だけはいささか自信があって、これなら先生も快く乗ってくださるという確信をもってお願いしたらやっぱりうまくいったわけさ。そのお祝いに飲みまわってきたんだ。 いやあ、先生の飲みっぷりの豪快なことときたら、まるで馬のようにしてビールばかり------。その割には先生、トイレにいきませんなあ、ワッハハハハハ------」
「先生はたしか、芸大のヴァイオリン卒業ですよね」
圭ちゃんは、ややうわずった声でたずねた。
「よくごぞんじですね」
男はさしたる関心もみせずに答えた。
「おいおい君、先生がどこの出だろうと関係ないじゃないか。昔のヴァイオリニストはみんな立派な作曲を残してるんだぞ」
女が水割りを作ったが、男は手に取る様子もない。相当飲み疲れているのだろう。
「いやそんなことじゃないんですよ。先生に変なヴァイオリン聴かせちゃったことで参ってるんですよ。ほんとに恥ずかしいなあ」
「なあに、そんなことならなにも気にすることはない。東京広しとはいえども、あのシューベルトの<菩提樹>をヴァイオリンで伴奏してくれるのは、ここしかない。東京に一軒、いや、世界中で一軒の貴重な店だ。ああわが青春、リルケに恋した過ぎ去りし日々。夜ごと口づさみぬ わが菩提樹よ」
「菩提樹はリルケじゃありません。ミュラーの詞です」
いまにも歌いださんばかりの中年紳士にたいし、若い男はピシャリとイヤミをぶつけた。
圭ちゃんがすかさず話をひきつぐ。
「ドイツリートを、ヴァイオリンで伴奏するというのも変な話ですが、まだましなんですよ。お客のほとんどが演歌でしてね。最近は空オケブームだから、みんな歌いたがりばかり。そんな伴奏を毎日毎日やっていると、ほんものの演歌師になったような気分ですよ」
「オーイ、オレ帰る」と、奥の酔客が大声を上げ、あわてて女がなだめにいった。
圭ちゃんは吐きすてるように舌打ちする。
「大丈夫、あの人、古いから------、それよりぼく、先生にいっぱいお訊きしたいことがあるんですけど、いいですか」
「おい、圭ちゃん、先生はお疲れなんだよ。仕事の話、音楽の話はやめ」
「気を使わなくてもいいですよ。ぼくは一向にかまわない」
言葉に反し男は、不快げに唇をすぼめて下を向いていたが、やがて少し意地の悪そうな笑みを浮かべていった。
「まあ、話もいいけどキミ、ひとつ<春の声>を奏いてくれませんか」
「えっ」
「<春の声>ですよ。この店の名前、そう言うんでしょ」
「ええ、あの、ヨハン・シュトラウスのワルツの------」
「<春の声>。だったらひとつ、奏いて下さいよ」
「先生、御冗談でしょ。ぼくの腕前なんて、さっきお聴きになったように------」
「ぼくは奏いて下さいと、お願いしてるんです」
男の口調はトゲ返り、ウムを言わせぬ迫力があった。
圭ちゃんが立ち上がると同時に、酔客は、すてゼリフを吐きながらでていき、店の中は四人だけになった。ミファ・ソファミファドシラシミレドレ・ソ・・ソファ・・ミミ・・ドレ・・シドーーー------
圭ちゃんのヴァイオリンは、お世辞にもうまいとはいえない。
ミファ・ソファミファシラソラレドシド・ラ・・------
ワンフレーズ終わると、圭ちゃんは頭をかきながら戻ってきた。
「もうカンベンしてください。恥かいちゃって------」
さすがに気がさしたのか、男の口調が少し柔らかくなった。
「店の名前にするくらいだから、よほど好きなんでしょ、この曲」
「ええ、好きは好きなんですが------。この曲には実は、ぼくの大変な思いでがありましてね」
中年紳士は、電話をかけるといって、席を立った。
「どんな思い出です」
「ええ------、中学時代に、いなかのしろうとオーケストラにいましてねえ、そのときにこれをやったことがあるんです。しかしむずかしかったですねえ。今でもうまく奏けませんが」
男の表情が少し動いた。
「へええ、それは------。ぼくも小学校時代、アマチュアオケで<春の声>やったことがある」
「そうですか------。それはナンといいますか」
「奇遇------。フシギな偶然の一致ですね。ぼくも<春の声>には強烈な思いでがあります。少し興味が湧いてきたな。その思い出話、よかったら聞かせてくださいよ」
「いや、下らない話で」
「下るか下らないかは、話の内容しだいです」
男は、また少し苛立ってきたようである。
「そうですか。でも、こんなプライベートな話、おもしろいかなあ------」
男が目で先を促すと、圭ちゃんは座りなおし、あらたまった声で言った。
「ぼくはね、先生。生まれが神戸なんです」
「えっ!」
男は思わず声を出し、表情を大きく動かした。
「ええ、それに、ひどい貧乏人のひとり息子なんです」
男はキッと眼を見開いたが、こんどは声も出さず、水割りグラスを握りしめた。そして酔った眼の前にグラスをかざし、遠くをすかし見るようにしながら言った。
「それはおもしろい。だんだん興味が湧いてきた。キミ、これはなかなか、下る話かもしれませんよ」
そこへ、中年紳士が渋い顔をして戻ってきた。
「先生、ごめんなさい。実は急用を思い出しまして、すぐ帰らないといけないんですわ。どうぞ、先生はゆっくりなさってください。ああ、ママ。勘定はあとで私が------」
「あなたが帰るんなら、ぼくも帰ります」
「そんな------、せっかくの先生のファンがかわいそうじゃないですか。もうちょっとつきあってやってくださいよ」
「先生、お宅、遠いんですか」
圭ちゃんの口調には、やや必至の思いがこめられているようだった。
「そうだな、タクシーで二十分くらいかな」
「それじゃ、ぼくがお送りしますから、もう少しいかがですか」
男はしばらくためらったのち言った。
「じゃ、水割りじゃなく、ビールにして下さい」
中年紳士が去ると、店の中は三人になった。女が気をきかせてかけたレコードは、ただの演歌スナックを、たちまちのうちに小粋なアンティーク・パブに変貌させた。
ウィーンフィルの<春の声>に乗って、圭ちゃんの思い出話が続く。
「さっきもお話ししたように、ぼくは神戸の生まれで、神戸の育ちなんです。うちは、ひどい貧乏でしてね。それでもヴァイオリンを習えたのは、ひとり息子だったからなんです。ぼくの父が、ものすごいクラシック気違いでしてね」
男は腰を落ちつける覚悟をしたらしく、柔らかい表情でうなずいていった。
「フシギだねえ。ぼくも、神戸生まれで神戸育ち」
「おや、先生もですか。これはフシギ、フシギ」
「そして、ぼくも一人っ子で、貧乏人の息子、それに親父もまた、クラシック気違い」
「へえっ------。それはまた------。そういえば、あの時代はそういう人が大勢いたようですね」
「そのようだね。で、話のつづき」
「ぼくは、小学校六年生のときにヴァイオリンを習いはじめまして、中学の二年から三年にかけて、国鉄芦屋駅のすぐそばの先生のところへ、ヴァイオリンを習いに行ってました」
「えっ! 芦屋の先生だって」
「おや、ひょっとして先生も、あの芦屋の------」
男は一瞬、眉を険しくしたが、すぐになごんだ表情に戻った。
「うん、芦屋に通っていたのは事実だ。話を続けて」
「その先生について三月くらいたったとき、両親とぼくは、その先生が指揮をなさっていた、芦屋市民オーケストラの演奏会に招待されたんです。
オケは、それまでにも二三度見たことはあったけど、あまり面白いとは思いませんでした。しかしそのときだけは、知り合ったばかりのたの生徒たちが出演するのとか、先生が棒を振るのとかで、オーケストラというものを身近に感じ、実に興味津々、胸ワクワクでした。曲目は、プロコフィエフの」
「<ピーターと狼>か」
「そうです。よくわかりますね」
「いや、ぼくも、そのオーケストラで<ピーターと狼>を聴いて」
「そのオーケストラに入られた? いやあ、フシギですねえ、じゃ、二人とも同じ先生についた兄弟弟子なんでしょうか」
「いやはや、実に全く、信じられないことがあるもんだ。きみは中学の二三年生の時といったね。ぼくの方は、小学校六年生のころだった」
圭ちゃんは一瞬、なにかにつまづいたような妙な顔をしたが、すぐに平静さをとりもどし話を続けた。
「ぼくはもう、<ピーターと狼>ですっかりオーケストラに夢中になりましてね。名も知らぬ 楽器のかもしだすフンイキに圧倒されて、終わってもしばらくは、ボーッとしていたくらいですから、先生から肩を叩かれて、<どうだい、君もやってみないかい>といわれたときには、それはもう、大声で答えようとしたんですが、声がひっくり返っちゃって」
「フーン------」
男は腕をくみ、少し考えこむような顔つきをしながら、貧乏ゆすりをはじめた。
「で、毎週日曜日に、芦屋市民オーケストラに通うことになりました。水曜日には先生のうちでの自宅レッスンがありましたから、ぼくのような貧乏人の息子が、週に二回も、全く生活水準の違う芦屋へ出入りすることになったわけです。
長年、芦屋に住み慣れた先生一家のかもしだす穏やかで上品な上流家庭の風景は、ぼくには全く無縁の世界で、レッスンの順番をまっている間に応接間で眼にする、年輪を感じさせる家具調度や、分厚い外国語の百科辞典、音楽辞典などにただただ圧倒され、それらのものたちに囲まれながらクラシック音楽を演奏するということの厳かさに、身のひきしまる思いをしたものです。それから先生の二人のお嬢さんたち、もう眼がまぶしくて正視できないくらい上品で爽やかで知的で------。ピアノに向かってさっそうとリストなんかを演奏される姿には、まるで、映画の一シーンを見ているというような気分におそわれたものです」
「じゃ、君もあのお嬢さんたちの演奏を知ってるんだね」
「一度だけ市民オーケストラで伴奏をしたことがありましたから」
「それにしても当時の芦屋は、金持ちにふさわしい上品な町だったねえ」
「ええ、電車の窓からの景色を見ていても、芦屋のかもしだすフンイキの違いはすぐにわかりました。その電車、つまり東海道線ですが、芦屋を過ぎて神戸へ向かうとまもなく、全国でも珍しい、川の下をくぐるトンネルがあります」
「芦屋川だ」
「そうです。その出口の崖のすぐ山側に、仏教会館という廢墟のような建物がありまして、今は名前も変わって立派になったそうですが、当時はさびれ切って、滅多に使われることのない、それでも充分に厳かな感じを充満させた、小さな会館でした」
「きみも、あそこでやったのか。フシギだなあ、ぼくもそうだった------。しかし、おかしいなあ。あれは、山側じゃなく、たしか浜側だったよ」
圭ちゃんは、一瞬ひるんだ。
「そうでしたっけ------。ま、とにかく、練習が始まったんです。毎週日曜日の、夜六時から八時でした」
男は無意識のうちにか、時計に眼をやっている。
「よろこびいさんで入ったのはよかったのですが、いざ練習が始まってみると、それはひどい、地獄のような苦しみでした。いまにして考えると、とてもオーケストラとはいえないようなヘタクソ集団で、棒を振ってる先生も、明確な指針をもっているとは思えないような、とにかくもう一度、もう一度というばかりの、まるで時間をもてあましているかのような反復練習の連続------。いまでこそ音楽に反復練習の必要なことはよくわかりますが、当時の、まったく子供だったぼくにはねえ------」
男は無反応のまま、下を向いている。
「ぼくは、他の人を下手クソだと言えるほどうまくはなかったけど、指だけは当時、やたらと早くまわりましてね。難しいところを、なんとなくごまかすのが得意でして、三十がらみのサラリーマンたちのなかに混じった最年少のぼくが、そのオーケストラののなかでは、いちはやく重要な役割を与えられました。それにもかかわらず、無意味な反復練習のたびに反抗して、<あーしんど>とか<ねむたい、ねむたい>などと言っては、みんなの邪魔をしたんですが、たかが子供がアクビをして騒いでも怒るような人もいず、逆に、腕白小僧として、みんなにかわいがられたもんです」
男はあらぬ方向をむいて、アゴをなではじめた。
「そのころ、ヴァイオリンの先生を別にして、ぼくをいちばんかわいがってくれたのは、そのオーケストラのコンサートマスターをやっていた人です。ガリガリニやせて無口、一見、冷たそうに見えてその実、誠実で真剣味のある、格好だけはパガニーニそっくりの、やさしい青年でした」
「------」
「しかし、その人の<パガニーニ風>は、全くの見かけ倒しで、信じられないほど音程が悪く、指もまったくまわらないので、ぼくは内心馬鹿にして軽蔑していたんですけど、いまになって考えると、ほんとに音のきれいな人で」
「そう、あれこそが、本当の音楽を楽しむ姿なんだ。ぼくもあの人に、ずいぶんかわいがってもらった記憶がある。オーケストラのパート譜なんかもよく写 譜していたねえ。独特の細かい書体、いまでも眼に浮かぶなあ」
男はもう不思議がる様子もなく、ついつい圭ちゃんの思い出話に引きこまれたようだった。
「やさしい人だった。時々キャンデーなんか買ってもらったりしてね------。いまあの人、どうしてるんだろう」
「肺病で死んだらしいです」
「------」
「いい人って、早く死んじゃうんですね」
「もう一人おもしろいひとがいたねえ。たしかホルン吹きだったと思うんだが、一日にコーヒーを五回以上飲まないと、調子がおかしくなるって言ってたあのひとはどうしたろう」
「えっ、そんなひといましたっけ」
圭ちゃんは一瞬現実にめざめたのか、たちあがって女の方へ行き、新しい水をもってきた。
男はしばらく無言で空グラスをなでまわしていたが、やがて記憶をふっきるかのように、ビールををつぎ、一気に飲みほした。
一息入れた圭ちゃんの話は続く。
「当時のぼくって言えば、音楽にはからっきし無神経で、指が早くまわるのと、大きな音を出すのだけをただただ得意にするだけで、汚い音でガリガリ奏きまくっているだけでしたが、その人や先生たちが苦笑しながら、<そこはピアノなんだから、もう少し弱くてもいいんだよ>なんて言われても、一生懸命奏いていることに水を差されたような気分になるといった、まったくの子供だったんです」
「うーん------。まあ、子供ってそんなもんだよ。それにしてもあの練習はひどかったなあ」
「先生、おぼえてます? あそこにあった、あの大きな壁時計」
「うん、たぶん戦前からつるしてあったやつだろう」
「あれをね、あのローマ数字を、反復練習が始まるたびにながめたものです。なんだ、まだこんな時間か、早くうちに帰りたいなあ、あーあ------なんて、何度もアクビをしたもんです。我慢しながらアクビをすると、涙でローマ数字がにじんで見えたものでした」
男の視線は、部屋のアンティーク時計の間をうつろにさまよった。たったひとつ動いている一番大きな時計の文字盤は、やはりローマ数字だった。
「そんなにいやだったんなら、すぐやめればいのに」
「ええ。でも、練習は耐え難くて、いやでいやでたまらなかったけど、それを別にすれば、あそこに行くということは嫌いじゃなかったんです。貧乏臭くて小汚い日常生活からの解放、憧れ、逃避------。学校友達の、プロレスや野球くらいしか話のないような連中には、とうてい感ずることのできない体験を得られる、という一種の優越感------。
ですからぼくは、練習の一時間前には、必ず着くようにしていたもんです」
「フーン」
男は、同意するように深くうなずいた。
「誰もいない、お化けもいやがるほどさびれ切った仏教会館------。実に不気味でこわかったんですが、一方、格好の遊び場でもあったんです。傷だらけの建物の、なお一層うらぶれたほこりっぽい個室のなかに放置された、使い古しの壊れた電話器------。電話なんて当時、金持ちとしての絶対的な象徴だったんですが、いとも無造作にほったらかしてある、あの違和感------。その会館は、戦前に建てられた相当に古いもので、とてつもなく高い、とぼくが感じた白亜の天井は、煤やシミで不気味な模様を描いていて、少しでも声を出したりすると、反響してくるこだまは、まるでその不気味な模様のお化けが答えているような気がして、ひとりっ切りでいるときは、とてつもなくこわかったもんです」
圭ちゃんのフンイキは、だんだんとメフィスト風になっていく。
「ときどき、さわってはいけないといわれていたピアノを、叩いたりしたこともありました。
二つのペダルを同時に踏んで弾くと、ピアノが壊れてしまうという、以前、誰かにふきこまれた他愛もないウソを本気にしていたぼくは、その真偽をたしかめるため、こわごわソオーっと両足でペダルを踏みしめ、まるで寝ている犬を眼がさめない程度になでてやるといった具合にピアノのキーを叩いたんですが、その音が天井に響きわたったとたん、世の中すべてが崩壊してしまいそうな恐怖におそわれ、あわてて表へ飛び出して振り返ってみると、別 段、なにごともなく普段のままでいるボロピアノを見ては、ホッと胸なでおろしたことなども思いだします。それからすぐさま、庭中かけまわり、さっきの恐怖など忘れ去って、サビついた鉄棒で宙返りしたり、棒切れで石を打って野球のマネをしたり------。なかでもぼくのいちばん好きだったのは、建物の横にまわり、あたりいちめん、野草におおわれた、やや急な崖っぷちに座りこんで下を見おろすことでした。そこはちょうど、国鉄線路の真上で、何十分ものあいだ、飽かずに線路をながめたものでした。ぼくは鉄道大好き少年でもあったのです」
男は圭ちゃんに、さぐるような視線をそそいでいる。
「そこを通り過ぎるいろんな列車の立てる騒音の微妙なちがい------。信号の、青から突如、赤に変わる瞬間の、機械操作の巧みさ------。もうすっかり自分が、模型鉄道の司令官になったような気分でした。<ワム>や<トム>などという、奇妙な名前の貨車の数をかぞえていると、逆方向からきた電車が、その視界をさえぎります。当時は、日曜出勤の人も多く、すぐ足もとを通 り過ぎる通勤電車は、あたりのほの暗さのなかで、もはやあかあかと車内燈をつけ、新聞を読んだり雑談したりしながら家路につくサラリーマンたちは、まるで劇中の人形のようにも見えたりしたものでした。 ぼくは子供ながらにも、通勤電車、長距離列車、貨物列車などの過ぎ去っていく後尾灯の赤い光のなかにいちまつの哀れさを感じたりしたものです」
男は、無言のままふところから布を取りだし、サングラスの掃除をはじめた。女も、カウンターの奥でかたづけをはじめる。
「すみません。話がへたくそで、なかなか<春の声>に到着しませんね。もうちょっとおつきあい下さい。さてぼくは、毎週一回、苦しくて長い練習に通 っていたんですけど、なにもつらいことばかりではありませんでした。あの隷属的な反復練習が終わりをつげたときの解放感、それは、何ものにも変えがたい幸せな瞬間でした。 だって、あの練習風景ときたら、それはもうひどいもんで。ちょっと先へ進んでは立ちどまり、また二三小節先でつかえ、そんなことを何度もくり返して、もたもたしながら、やっとある段落までたどりつきます。ああ、やっと半分まできたか、さあもう少しと思ってホッとした瞬間の、あの冷酷な先生の無残な宣言<さあ、いま言ったことを忘れないようにして、もう一度最初からやりましょう。さっき注意したところが駄 目だったら、もういちど止めますよ>またもや振り出しに戻り、百遍も二百遍も奏いて、とっくの昔に飽き飽きウンザリの楽譜、結果 はまたも同じところでつかえ、いつもの叱言。そしてまた、いつ果てるとも知れない反復練習地獄。そのたびにあの古びた大時計のローマ数字をにらみながら、がっかりしたり嬉しくなったり------。 やっとのことで練習が終わりを告げたときのあの解放感と充足感。もう心は家路へ一目散、自然と声も高ぶり、大声で先生たちに別 れを告げたものでした」
「------」
「当時のオーケストラのメンバー中、子供はぼくひとり。ほとんどがサラリーマンや学生たちの集まりで、なかにはもう、反射神経もサビついて、いつもリズムを乱すお荷物のようなおじいさんもいました。その中にあって、神戸から通 っていたのが、ぼくと、それにこれから話そうと思っている二人の年上の女性、計三人でした。その二人とぼくは、ともに同じ先生についている同門の生徒というわけで、二人ともそのとき、高校一年のお姉さんでした。練習後の、あのスガシガしい解放感。それはもうすばらしいの一言ですが、それにしても、そのあと四十分もかけて独りぼっちでさびしく帰るんであれば、ぼくはとっくの昔にあんなオーケストラなど、やめていたでしょう。あの練習後の幸福、それはつまり、あの二人のお姉さんたちと一緒に帰れるというところにあったんです」
男は一瞬、何ごとかをつぶやくように唇をひくつかせたが、すぐに黙りこみ、いぶかしげに圭ちゃんを見つめた。
「二人のうち、Nさんとは三宮駅で別れますが、あとの一人とは、それからのバスも一緒でした。ぼくの方が先に降りるんですが、その人とは本当に、ウチの近くまで一緒に帰ったもんです。その人はTさんといい、ぼくのところからバスで四つ目くらいの」
男は突然、圭ちゃんの話をさえぎった。
「なんだって! おい、NさんとTさんだって!」
男の視線は、鋭い疑惑を帯びて険しくなっていき、それまでの姿勢を変えた。しかし圭ちゃんは自分の話に夢中なのか、男の態度の変化には、あまり注意を払わないようだった。
「Nさんのお父さんもTさんのお父さんも、当時のクラシック気違いの一員だったようで、とくにNさんのお父さんはヴァイオリン好きが昂じて、御自分でヴァイオリン作りをはじめたというくらいのマニアぶりでした」
男は圭ちゃんから眼をはなさずビールを一気に飲みほした。深夜にもかかわらず、飲むピッチは早まるようだった。
「中学生では、恋愛などと呼べるような感情はまだないけど、その芽生えみたいなものを、ぼくは感じていたようです。二人とも、さして美人とはいえなかったけど、他の子供たちとは違った世界にいるという特殊な連帯感の中では、二人にたいして特別 な感情を抱いてもごく自然なことだし、同様に、向こうの方でもそう感じていることは、ぼくにもわかっていました」
「------」
「同級生の女の子はだいの苦手で、いっさい話しかけられないように避けていましたが、あの二人はまるで別 でした。それにしても二人の性格はまるで正反対。Nさんの方は大柄で、少しおっちょこちょいでもありましたが、いつも暖色系の服を着てよくしゃべる朗らかな陽性。それにたいしてTさんの方は、いつも黒っぽい服を着る、口数の少ない、もの静かな人でした。ぼくは、Tさんの方がうちが近いということと、無口ながらもはにかむ笑顔のきれいな彼女がとても神秘的に思え、最初、ぼくはTさんの方をとっても好きだったんです」
圭ちゃんは男から眼をそらし、中空を見ながら話しつづけた。
「それに気づいたNさんは、悪気があったとは思えないけど、ときどきNさんをいじめるようになったんです。そしてときには、そそのかされたぼくも一緒になって、Tさんをいじめ始めたりして------。あとから気づいたことなんですが、いじめの原因は別 のことにもあったようです。三人の中ではぼくが一番遅くヴァイオリンを始めたうえに、上達が早かったので、別 扱いされていたようですが、NさんとTさんはヴァイオリンを習い始めたときもほぼ同じで同学年、しかも同じ神戸です。あまり仲がよくなれないのも当然でしょう。そして練習曲の上達もほぼ同じくらいだったようですが、Tさんの方が一歩はやく<チゴイネルワイゼン>に到達したのでした。そのころの子供にとってばかりでなく、実はヴァイオリンを習わせている大人にとってこそ、<チゴイネルワイゼン>を奏くということはヴァイオリンの頂点に立ったんだというくらい重みのあることだったのです。その輝かしい頂点に、Tさんの方が先に到達してしまったのでした。Nさんのいじめの原因は、無意識のうちに、そんなところにもあったんだろうと思われます。ただ、いちはやく<チゴイネルワイゼン>に到達したとはいえ、Tさんのヴァイオリンの腕はまったく平凡で、だいたいぼくたちと似たりよったりでしたが、ただひとつ、致命的な欠点がありました。それは、どうしようもない音程の悪さでした。といっても、ヴァイオリンを習っている人間にしかわからない程度のことなんですが、その微妙な音程の狂いが、その人の死命を制するくらい、ヴァイオリニストにとっては根源的な問題なのです。ああっ、こんなよけいなことをいってごめんなさい。先生もヴァイオリン出身でしたね」
「------」
「Nさんは、ほぼその点を集中的に、Tさん攻撃の材料にしました。ぼくも最初のうちは、別 に悪気もなく、軽い気分でからかったりした程度だったんですが------。 そんな我々に、Tさんは不思議なことにいっさい反抗せず、ただ悲しそうに打ち沈むだけでした。それがますますぼくたちをつけあがらせ、いやがらせは次々とエスカレートしていき、それにつれてぼくの心は段々とTさんから離れ、Nさんの方に心移りしていきました。Tさんとのあいだには、こんなこともありました。------このあいだ、学校の美術の時間にね、先生が、君たちは何色が好きだってきいたんだ。ぼくは緑色が大好きなんだけど、そういう人は、いま幸福で恵まれてるんだって。赤は、やんちゃでいたずら好き。黄色は、ちょっとキ印なんだって。Tさんは、何色が好き?
Tさんの答えは意外なものでした。吐きだすようにポツリとひとこと<黒>と。 ぼくの方は独り合点で、きっとTさんも<緑>と答えるものと決めてかかっていて、二人で喜び合えるものと思いこんでいましたから、あまりにも意外なTさんの答えにぼくは当惑し、しばらく返す言葉もありませんでした。
それは三宮から乗ったバスの中での会話でした。トーアロードを延々とのぼりつめた北野町一帯の異人館は、いまでこそ神戸の顔のようになっていますが、当時はさびれきって夜は暗く、すこし手前に建っている回教寺院の、闇夜にボーっとネギ坊主のような頭をアラワにしている気味悪さとともに、Tさんの心の底知れぬ 暗さを一瞬かいま見たような気分におそわれ、会話は途切れてしまったのをおぼえています。
ぼくの心がTさんから遠のいたのは、このことも原因にもなりました。
しばらくしてから、黒の好きな人はなに? と訊かれたぼくは、ウソをつくわけにもいかずモゴモゴしながら、ほんとうかどうか知らないけど、黒の好きな人は、陰気であまり良くないんだって、と遠慮勝ちに答えても、彼女は少しさびしそうに力なくほほえんだだけでした。
------そう、私ちょっと暗いところがあるって、みんなに言われるわ------そんなことがあったころに、例の<春の声>の練習が、あのオーケストラで始まったんです。
いまでこそ、優雅でノスタルジックな良さはよくわかるし、大好きな曲ですが、子供だったぼくにとって、あの曲の出だしなんかは特に、ウネウネと意地悪くのたうつ、地獄の蛇使いのような気味悪い感じで、どこがいいのかさっぱりわからず、たいへんにいやな曲でした。だって、出だしからあんなに臨時記号の多い、音程の取りにくい曲は見たこともなかったし、音程だけならまだしも、リズムまでややこしくて------。でもそのうち、得意のごまかしで、奏けるフリをすることくらいはできるようになりました。よくさらうNさんの方が、上達は早かったようですが、そんなぼくたちにくらべてTさんは、いつまでたっても音程がとれず、一向に上達しません。だからアンサンブルを乱し、そのたびに先生は曲をとめる。そしてあのとめどない反復練習の地獄------。
いつまでたっても先に行かないのは、みんなTさんのセイだと、怒りを貯めこんだぼくは、ついにある日、みんなの前で大声で叫んでしまいました。------オンチ! あんたみたいなオンチとは一緒にやってられないよ。オンチにヴァイオリンなんか奏けるもんか!------
なんという残酷なことを言ってしまったことでしょう------。子供の<純真さ>なんて大ウソ。甘やかしのなかでエゴだけがむき出しになった、実に卑劣な死刑宣告でした。
Tさんはそれっきり、オーケストラに来なくなり、しばらくして、ヴァイオリンの先生のところもやめてしまいました」
男はいつしか額に脂汗をうかべ、憎悪に満ちたまなざしで、圭ちゃんをにらみつづけている。
妙に険悪な間がつづくうち、レコードも終わり、女の整理している食器の音だけが、空しく店に響き渡った。
「それでTさんはどうした?」
男は押し殺した声できいた。
「えっ」
圭ちゃんは少しひるみながら答えた。
「べつに------。それだけの話です」
男は、平静を装った低い声で、早口で言った。
「きみのおもい出話は、それで終わりか。もっともらしいことばかり言って。全部ウソじゃないか、作り話だ、デッチ上げだ」
「そんな」
圭ちゃんは、強く否定もせず押し黙った。
「よく聞いてればなんだ、いまの話は! あれは全部、ぼくの話じゃないか」
「------」
「だいたいきみは、神戸生まれだと言ったな。じゃ、神戸弁をしゃべってみろ」
「そんなこと、急にいわはりましても、うまいこといきまへんがな」
「ふーん。たしかに神戸らしい。じゃ、きみのうちはどこにある」
「兵庫区湊川七丁目」
「それ見ろ、大ウソだ。ぼくのうちは石井町三丁目」
「そりゃ先生、あたりまえでしょ。ぼくのうちは湊川町で、先生のうちとはちがいますもん」
男はたまりかねたのか、やや声をあらげた。
「きみが、なんのためにこんな作り話をするのかよくわからん。しかしまあ、それにしてもよくもそこまでぼくのことを調べあげたもんだ。最初のうちは、あまりにもぼくと境遇が似ているんで、ビックリしてたんだ。ピーターと狼の話まではね」
「------」
「しかしきみは、まちがいをおかした。仏教会館は浜側で、絶対に山側ではない。そして、決定的な二つのまちがい------。ぼくは当時、小学校六年生くらいで、中学じゃなかった。だから、TさんとNさんとやらの色恋の話なんかあるわけがない。そしてもうひとつ決定的なこと、それは神戸の住所だ。さっきなんて言った、もういちど言ってみろ」
圭ちゃんは平静に答えた。
「湊川七丁目」
「そら見ろ、さっきも言ったように、ぼくの住所は石井町三丁目だ。ヴァイオリンを習うほどの高級住宅街じゃないし、ぼくもたしかに、一人っ子で貧乏人のせがれだ。だけど、そんなことをあばきたてて何になる。なんのためにそんな作り話をしてぼくを当惑させるんだ」
「------」
「たしかにぼくは、Tさんのことをオンチだと言って笑いものにしたことはある。しかし彼女がヴァイオリンをやめたのは、それが原因じゃない。ほかにちゃんとした理由があったんだ」
「どんな理由です」
圭ちゃんはあくまで平静である。
「うちが貧しいうえに、兄弟が多く、長女だった彼女は、みんなの面倒を見るために、ヴァイオリンを続けることができなくなったということだ」
「先生は、ほんとうにそう思っているんですか」
「ほんとうもなにも------。ずいぶん変なことをいうじゃないか。なにかぼくに恨みでもあるのか。デタラメばかり並べたところで、最後にはボロがでるもんだ。住所を調べないなんていう初歩的な、つまらないミスをして。すぐわかることなのに、なぜ------」
男は怒りを押さえながら、ゆっくりと店内をながめまわしていたが、突然、視点を中空に貼りつかせ、顔色をかえ、大声をあげてビールグラスをテーブルに叩きつけた。 「あっ、そうか! 湊川七丁目------ウーン、気がつかなかった。そうか、ヒョッとしたらきみは」
男は大口をあけ、絶句した。
「先生、やっと気がつきましたか」
男の息づかいは荒くなり、肩がふるえはじめた。
「きみは、きみは------」
「そうです、そのTさんの弟です」
男は、急に居心地悪そうに体を堅くした。眼線もキョロキョロと落ち着きをなくし始める。
「姉は、たいへん心のやさしい人でした。たしかに少々無口で、陰気くさいところもありましたがね。でも姉は、あの日曜日をほんとうに楽しみにしていて、うちへ帰っては、ぼくたちに一部始終を報告しました。とくにあなたのことを中心にね。姉はほんとうにヴァイオリンが好きで、あなたが好きだったんです」
「------」
「うちでよく言ってました。I君は天才だ、すばらしい、I君も私のことを好きだし、とっても幸せだってね。あなたと一緒に通 いだすようになって一年くらいは、毎週毎週、同じことばかり聞かされて、家族はいささかウンザリしたもんです。ぼくなんか、まだ小学校の低学年だったから、将来、必ずあなたと姉は結婚するものと思いこんでいたくらいです。それが一年くらいたってから、段々とふさぎこむようになって」
「------」
「そして、ある日曜日、ずいぶん遅くなって、泣きながら帰ってきた姉は、一切なにも言わず、ヴァイオリンケースを開けました。中からでてきたのは、無残にも破壊され、修復不可能な状態になってしまったヴァイオリンの残骸でした。父はきつく姉に詰問しました。誰にこわされたんだ、と。一晩中問いただす父にも姉は一切口を開きませんでした。
そして、オーケストラも、ヴァイオリンの先生のところもやめた姉は、日ごとにドンドンと陰気に落ち込んでいって------ついには精神病院に------」
「えっ! ノイローゼ?」
「そんなんじゃありません。精神分裂症です」
「------」
「うちの父も、すこし精神状態がおかしかったんですが、それが遺伝でもしたんでしょうか。姉は、ヴァイオリンを奏きながらも、耳鳴りがすると、しょっちゅうこぼしていました。入院してからも姉が口にするのは、音程のことばかり。つまり姉は、耳鳴りのせいで、音程が正しくとれなかったんです」
「そうか」
男は肩をおとし、弱々しく弁解した。
「しかし、小学生の子供の言ったことだよ。いつまでもそんなことを言われても------。それできみの姉さんは、いま?」
「姉は自殺しました」
「えっ!」
男は一瞬たちあがりかけて、すぐにヘナヘナと崩れこんだ。
「そんな、そんなバカな」
「ぼくはべつに、あなたを責めるつもりはありません。しかし、事実だけは知ってもらおうと思って」
「いまさら、なにをどうするつもりだ------、死んでしまったのか、しかしまたどうして------」
「姉は、ほんとうにあなたのことを」
「圭ちゃん、いいかげんにしなさい」
カウンターから大声がとんできた。やがて女はテーブルの方に近寄ってくる。 「そんなオーバーなウソをついて、先生に迷惑じゃない。いいかげんにしなさい」 事態の新たな急展開についていけないような情けない顔で女を見続けていた男は、オズオズと言った。
「きみは------きみこそヒョッとして」
「Iさん、ほんとうにしばらくです。あのときのTです」
「どうりでこの店に入ったとき、どこかで逢ったような気が一瞬したんだけど------。そうか、自殺したんじゃなかったの」
「死んでたらいま、お話しできるわけがないでしょう。圭介がオーバーなことばかり言うもんだから」
男は、ホッとすると同時に、照れと怒りに混じった視線を圭介に向けた。
「姉さん、ダメだよ、ほんとうのことを言わなきゃ。そんなアッサリゆるすなんて、信じられないよ。だって姉さんが入院したのは事実なんだから」
「昔のことは、もういいじゃないの。だいたい精神分裂病だなんて、大ゲサなことを言って、ただのノイローゼよ、人聞きの悪い。それも、アンタたち兄弟の面 倒見で疲れちゃったのが原因なんだから」
「しかし姉さん、あんなに好きだったヴァイオリン、Iさんのために」
圭ちゃんの必至の形相に、男はたじろいだ。
「ぼくがヴァイオリンを始めたのも、あのことがきっかけだったし、店の名前にしても」
「もう昔のことよ。いまになってみれば、恨みなんかあるもんですか。それよりも、ほんとうに懷しいわねえ、Iさん」
男は、やっと少しホッとしたようだった。
「それでこの店、<春の声>っていうのか」
「ねえ、Iさん。ちょっとお伺いしますが、Nさんはいまどうしてらっしゃるかしら、お逢いになります?」
「いや、最近は逢わないけど、自分の入っていたオーケストラの団員と結婚してオーケストラをやめてからは、うちでヴァイオリンの先生をしてるとかいう話しだが」 「そう------まじめにやってらっしゃるのね。ああいう人の方が、まともなのよね。私なんか暗い暗いと言われながら水商売になっちゃって------。
さっき弟がオーバーに言ったことのなかで、Nさんが意地悪ばかりしてたようなこと言ってたけど、そんなことはなかったのよ。そりゃ子供だから他愛ないイケズはあったかも知れないけど、そんなこと、私はまったく気にしなかったのにあの人、私がヴァイオリンやめてから、わざわざうちにまで来てくれたのよ。ヒョッとしたら、自分がいじめたことが原因かも知れないと思ったといってね。ほんとにのびのびした、おおらかないい人だったわ。それにひきかえ、私は------」
「言い店じゃないか、これからも利用させてもらうよ。あのね、店の名前のことなんだけどね、ちょっと考えすぎかも知れないけど、この名前にすれば、ぼくがくるかも知れないと------」
「いいえ、そんなことは全然ありません」
圭ちゃんは、きっぱり言い切った。
「先生は、どんどん有名になられるし、こんな場末の飲み屋に来てくれるなんて、夢にも思いませんでした。だいいち、あなたに逢うつもりなら、いつでもこちらから出かけて行けばいいでしょう」
「それもそうだ」
「さっきの大山先生ね。あのかたに、よく昔話をしていたの。そうしたら」
「そうか、それで彼がここへ連れて来たのか。<春の祭典>のあとの<春の声>、なーるほど。彼も、なにか急に用事を思いだしたようにしてあわてて帰っちゃったなあ」
沈黙がつづいた。
しかし、もはや気まずさは消え、はるかな追憶が三人を包んだように見えたとき、壁にかかった大きなローマ数字の時計が、淀んでくぐもった音をたてた。
二十数年の、時の底から湧きだしてきたような、アンティークな響きだった。<春の声>おわり
村上春樹の場合
<罪深きウソ>
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」(「風の詩を聴け」P7)
この手の他愛ないレトリックにあっさり感じてしまうくらいだから、心の底では、村上春樹大好き人間の私なのだ。
「いいかい、誠実な仕事なんてどこにもないんだ。誠実な呼吸や誠実な小便がどこにもないようにさ」
うーん、少々強引だが(「羊をめぐる冒険」P77)、気持よくだまされてみよう。「嘘をつくのはひどく嫌なことだ。嘘と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく嘘をつき、しょっちゅう黙りこんでしまう。
しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など無くなってしまうのかもしれない」(「風の詩を聴け」P126)これはどうだろう。少々行き過ぎではないだろうか。私は、ハリウッド映画の名セリフのような切れ味鋭い春樹風レトリックは大好きだが、彼から人生や道徳のお説教を聞きたいとは思わない。
彼が「風の歌を聴け」で登場したとき、多くの人が、カート・ヴォネガット(米SF作家で、警句風のセンテンスを羅列する文体で有名)との共通 点を指摘した。そうかも知れない。しかし彼がヴォネガットよりもっと数多く道徳訓を垂れるのを見るとき私は思う。彼は、現代版ニーチェに成りたがっているのではなかろうかと。彼の墓碑には遺言に従って、ニーチェの次のような言葉が引用されている。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」(「風の詩を聴け」の作者あとがき)ここに書かれている「彼」とは、小説の中でしばしな引用されているハートフィールドというアメリカの作家?のことで、あとがきにまで作中人物を登場させ、もっともらしく見せたということで非難を受けた箇所でもある。
まだ若いはずなのに、横町の隠居的道徳訓垂れ兵衛になることが多いのを除けば、「羊をめぐる冒険」三部作は絶好調だと思うし、今でも私の好きな小説の筆頭に入る。
彼の少々強引なレトリックは時には野蛮にも見え、都会人に成り切っていない所がうかがえて好感がもてる。それでもシティノベルの代表のように思われているのは、彼の幅広い音楽趣味が大いに貢献しているのではないだろうか。
作家になる前、ジャズ喫茶をやっていたこともあるそうで、その反映か、彼の小説にはやたら、ジャズやポップスの曲名、バンド名が横溢している。だが一読すればすぐに分るように、彼は音楽を刺身のツマに利用しているだけで、決して音楽そのものを語ったりしてはいない。
最近の作家には音楽に拘泥する人が多く、村上龍、新井満、嶋田雅彦、伊達一行、三田誠広、等々沢山いるが、彼らは少くとも何らかの形では音楽に踏み込み、コミットしようとしている。それに比べ、村上春樹ほどふんだんに音楽を登場させながら、単に修飾の材料の域を脱していない(意識的にだろうか)作家というのも珍しい。広いラウンジの一段低くなったところにマリン・ブルーに塗られたグランド・ピアノがあって、派手なピンクのワンピースを来た女の子がアルペジオとシンコペーションで埋めつくされた典型的なホテルのコーヒー・ラウンジ型の演奏をしていた。悪くない演奏だったが、曲の最後の一音が空中に吸いこまれてしまうと、あとには何も残らなかった。(「羊をめぐる冒険」P137)
そしてショパンのバラードが車内に流れ出した。結婚式場の控え室みたいな雰囲気になった。(同P173)
ラヴェルの「ボレロ」を聴きながら小便をするというのは何かしら不思議なものだった。永久に小便が出つづけるような気分になってしまうのだ。(世の終りとハードボイルド・ワンダーランドP525)
この他、多くのポップ・ミュージックの扱いも大差なく、彼にとっての音楽は「レベッカ」を書いたデュモーリアの、いかにも女性らしい植物や花へのこだわりと同様の域を出ていない。
それでも彼は時々足を踏み外し、音楽を次のような困ったレトリックの材料にしたりする。太った中年の女はスクリヤビンのピアノ・ソナタに聴き入っている音楽評論家のような顔つきで、じっと空間の一点を睨んでいた。(「羊をめぐる冒険」P285)
二百枚ばかりのレコードはどれも古く盤面は傷だらけだったが、少くとも無価値ではなかった。音楽は思想ほど風化しない。 (同上P323)
前者のオーバーでイヤ味(殆んどの読者はスクリヤビンの名前すら知らないだろう)なレトリックを本気にする人がいたらば、スクリヤビンにとっては大迷惑な話だ。
また作者の彼の意見は単なる誤解でしかないが(すぐ腐ってしまう大量消費音楽のいかに多いことかは、彼の最近作「ダンス・ダンス」でも強調されている、)この意見は、大ていの音楽家にとっては嬉しい誤解でもある。「羊をめぐる冒険」三部作、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」までの音楽シーンについては、そう眼鯨をたてることもない。しかし問題は、小説の題名にまでビートルズの曲名を借りた「ノルウェイの森」以降だ。
一組の男女が二人切りでいながら何ごともなく一夜をすごす:::といったような内容でなかったか、レノンの詞は:::。小説「ノルウェイの森」全部をおおっている気分を彼は見事にビートルズから借用している。
だからといって音楽と何か関係があるのか:::やはり殆んどない。精神を病んだ直子との場面 では余り音楽が出てこないし、かたや東京のネアカの少女「緑」はギターをかき鳴らすフォーク少女で、あまりいい音楽趣味でもなさそうだ。そんなことはどうでもよい。問題は、私がこの章のサブタイトルにまでつけた「罪深いウソ」が、堂々と道徳の鑑として登場しているということなのだ。それは、直子の病院での友人の元クラシックのピアニストの存在だ。彼女が、直子を訪れてきた「僕」に次のように言うシーンがある。世の中にはそういう人っているのよ。素晴しい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう人たちがね。私も何人かそういう人たちを見てきたわ。
最近はとにかく、もう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲を楽譜の初見でパーッと弾いちゃう人がいるわけよ。それもけっこううまくね。見てる方は圧倒されちゃうわよね。私なんかとてもかなわないってね。でもそれだけなのよ、彼らはそこから先には行けないわけ。何故いけないのか?行く努力をしないからよ。努力する訓練を叩きこまれていないからよ。スポイルされているのね。(「ノルウェイの森」下巻p10)みなさんはこの文章をどう思うだろうか。たかが音楽上のこと、そんなもんかとパスしてしまうかも知れない。しかしよく読んで欲しい。彼は非常に怖しいことを堂々と言ってのけているのだ。極論すれば、素晴しい才能はなくても努力する訓練を叩きこまれていれば、音楽は上達するということになる。こんな馬鹿な愚しい話は聞いたことがない。
私のプロの立場から発言するなら、レイコ(上記の発言をする元ピアニスト)が憎悪する、びっくりするような才能がなければ、まずプロにはなれないし、それくらいの才能の持主なんてワンサカいるのだ。そのワンサカの中には、そりゃ努力しないでスポイルされるのもいるだろうが、一番すごいのは、その恐ろしい才能を努力もなしに(常人から見てにすぎないが)開花させてしまう一部の人たちがいるという事実なのだ。
こんなことはよく考えれば誰にでも分ることなのだから作者はきっと、どこかでこの説に反対する立場を用意しているものと思って読み進んでいったが、一向にそのシーンは出てこなかった。
小説は論文じゃないのだから、何を書こうがかまはない。しかし外国の小説の通 例では、AがAの説を主張したらばBはBを、CはCをという風にバランスをとるのに何らかの工夫がされているものだ。ましてやこんな気恥しい道徳論を堂々と書き捨てて放ったらかしにするなんて、彼の神経は少々鈍いし、三百万部も売れたとなれば彼の説を頭から信じこんで、ロクに才能もない子のお尻を叩いて練習地獄に追いやる鬼のような教育ママ(別 にピアノに限らず)が得手に帆をあげ、大拍手しているサマを思いえがき、全身が総毛だってくる。最近作「ダンス・ダンス」の評価がまたすこぶる良いようだが、私の評価は丸で正反対だ。「ノルウェイの森」は小説としては非常に面 白かったが「ダンス・ダンス」には肝心のその楽しみが余りない。
主人公は人生を「雪かき」になぞらえ、非常に気にいったらしいその言い廻しを随所でふりかざすが、これが彼の人生の「規範」らしく、十三歳の「スキ」にまでそれを押しつける。そんな凡庸な主人公をみんなが「変っている」というが、どこが変っているのか何ひとつ伝わってこない。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想ではなく行動規範だ。***中 略***「紳士であることってどういうことなんですか?もし定義があるんなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」
「あなたは僕がこれまで会った人の中でいちばん変った人ですね」と僕は答えた。これは「ノルウェイの森」の中の「僕」と「永沢さん」の会話の一説だが、この永沢さんが「ダンス・ダンス」の主人公になっただけのことなのだ。
疲れ切った羊男、雪かき人生、同じアホなら踊らにゃ損々等、疲れる内容なのだが、こと音楽の扱いもまた非常に困ったものだ。そんな音楽が泡のように浮かんでは消えていった。くだらない、と僕は思った。ティーン・エイジャーから小銭を巻き上げるためのゴミのような大量 消費音楽。
(「ダンス・ダンス」上巻P31)困ったことに、そういう音楽がしく存在するのは事実なのだが、そう書いた彼は、インクの乾く間もなく大量 のそうしたポップスのバンド名、曲名、アーチスト、詞の内容をダラダラと際限もなく羅列していく。本人が下らないといって切りすてたはずの情報ばかりが満際されている上下巻。それもこれも「雪かきだ」ですませてしまうのなら、それにつきあわされた読者も「雪かき」の手伝いをさせられただけにしかすぎなくなり、うまく作者に一杯喰わされ、時間と金を浪費させられただけのことにすぎなくなる。
声を大にして言おう。私は「羊」三部作までの村上春樹大ファンである。「ダンス・ダンス」は全く頂けない。ということは、ひょっとしたら、読者としての私の成長が止まってしまったということなのだろうか。
コンサートの乱入者
(作者からの一言== これは15年くらい前に書いたものだが、乱入事件そのものは、私が高校時代に実際に遭遇したものである)
ぼくは今日、鈴木清順の「チゴイネルワイゼン」を見てしまった。
そんなものも知らないのか、とビデオ狂いの友人におどかされたのだ。
くやしいことに「二〇〇一年宇宙の旅」以来、久し振りに感動してしまった。
ハッとしてグーと、ダラダラしてグーグーとがごっちゃまぜ。そしてなにより、死を予感した老人の美学を感じさせるところがたまらない。
なんて、えらそうなことを言っているぼくは、まだ十八で、今年、東京のさる音楽大学のピアノ科を受かったばかりの、ほんのヒヨコなんだ。
出身は神戸だけど、もう標準語も板についている。
さて、映画には感心したけど、肝心のチゴイネルワイゼンに関する話には、ピンと来なかったね。
サラサーテ自身がバイオリンを奏いているSP盤の、有名なスローの部分が中断されて、なにやら会話らしきものが録音されているのだが、その中身をめぐっての話が発端となっている。
「あれは君、いったい何をいってるのかね」なんて、いかにも謎めいたりしてね。 なあに、あんなもの、時間がないからここはすっ飛ばして先へ行こうって言ってるに違いないんだ。
だってSP盤は、どう見ても五分くらいしか入らないんだもん。
あの有名なスローの部分をやってしまうと、完全にタイムオーバーしてしまうんだ。
ほんとうに謎を秘めたレコードなんて、そうザラにあるものではない。子供のときからレコードに埋まって生活をしてきたぼくが言うのだから、まちがいないはずだ。 祖父は相当ハイカラだったらしく、SPがゴロゴロ。父も父で、ハイファイ時代からのレコード狂。だから兄貴なんか、音楽大学を出てすぐにレコード会社に入り、今や売れ線のピカピカディレクターをやっているくらいだ。
謎とまではいかない程度の、ちょっとおかしなSPなら山ほどある。
演奏者や曲名のわからないマイナーなものを始めとして、イザイェのメンコンや、パッハマンのピアノなんて、おかしくて涙が出てくる。
ジェンキンスおばさんの音痴アリアや、最近のにしてもローズマリーおばさんの霊媒ピアノとか、無限音階とか......。
しかし、今ここにある、最近リリースされたばかりのCD。これにかなう謎めいたものはないだろう。
何をかくそう、ぼくの兄貴がディレクターをやったものなんだ。
ものは「一九九×年・日本現代音楽展」という、一見、しかめつらしいものだ。
おっと、現代音楽なんて、と言って顔をしかめる人がいるかも知れないが、いやいや、
仲々のものですぞ。ではちょっと、サワリの部分をお聞かせしましょう。
始めは、正体不明の物音の、神秘的なうごめき。
カシャシャシャ、ズルリーン、ドワーン、グビリグビリ......。
なにやらおごそかに謎めいたイントロ。
そのうちに、ピアノやドラムが姿を現わし、急激でオーバーなクレッシェンド。
バッシャーン ワン ワン ワン......。しばらくの沈黙。
やおら、女声がうがい、ガラガラガラ、ポッ......。
発声練習じゃありませんよ。レッキとした芸術作品なんです。現代音楽にメロディなんていらないんだから......。
ほらお次は、なにやらおっかない、バタバタという音。
地獄からの使者、妖怪コウモリの羽ばたきを思わせるそれは、コントラバスの弦と弦の間に紙と棒をはさんで、たたいている音なのだ。
次はほら、あの強力アヴァンキャルド、山下洋輔もビックリっていうピアノ......。あれは実に体力がいるものなんだ。ほんとうは。 そして、トロンボーンだよ、あれは。
スライド奏法で吼えまくるものだから、まるで象のオナラみたい。
まあまあ、こんなものつまらないという人も、もう少しの我慢......。
ほら、段々と興奮してきたソプラノが、奇声を発しはじめたでしょう。
楽譜には色んなことを書いてあるんだ。
夜明け前のネボケ声。
ジュースが気管に入ってセキこむ声。
交尾しているネコが、フンづけられた鳴き声。
黄昏の性感帯、etc......。
ほらほら、そう思いながら聴くと、彼女もよくやってるでしょう。
そして、ここ。このクライマックス。これをよく聞いて欲しいんだ。
ほら、彼女の声が突然やんで。
何やらオフで、変な男の声がきこえませんか、ワーオとかウェッとか......。
するとそれに反応したかのような、ステージ上のプレーヤー全員の立てる、恐ろしいテュッティ。
だんだん男の声もオンになってくるけど、でもまだ、何と言っているのかはよくわからない。
ねっ、これ世紀の謎、謎ですよ。
それにこの物すごい音の洪水。うるさいったらこの上なし。
あっ、女の人が驚いて叫んだ。ピタッとおとが中断して......。
ガラガラと何かの転がる音。
そして次はよくきこえる、男の声。
「アホやからわからへん、かーえろ、
アホやからわからへん、かーえろ、
こんなん、おもろいんか、おまえら、
アホやからわからへん、かーえろ、
カラーン、ペタ、カラーン、ペタ......」
どう! すごい迫力でしょうが。
でもこれ、ちゃんとしたと言うか、世界的に有名な某作曲家の作品なんですよ。いったいどうなっちゃってるんでしょう......。
実はぼく、この事件をよく知ってるんだ。それもあたりまえ、ぼくは、この作品のコンサート会場にいたんだから。
今かけたCDは、そのときのライヴ盤ってわけ。
現代音楽なんて、普通はほとんど売れないんだけど、こればかりは最近、びっくりするほど急上昇中で、ディレクターをやった兄貴は、うすら笑いを浮かべていたもんだ。
しかし、ここ二三日前からは、非常に複雑な思いにかられている様子。
その原因も非常に面白いんだけど、まずはこの傑作なコンサートを再現してみよう。東京へ来てから数ヵ月たって、人並みに五月病にもかかり、いまやいっぱしの口をきくようになったぼくだが、実は、去年の十月の時点では、大いに進学に悩んでいたのだ。
東京の私学に受かる自信くらいはあったが、音楽の道に進みたいという気持ちも根強くあったのだ。
そんなとき、東京でレコード・ディレクターをやっている兄から、こわーい手紙が届いた。「お前は日頃から、ロックやフュージョンにばかり狂っているようだが、そんなことで音楽大学に行こうなんて、けしからん話だ。たまには、純音楽や現代音楽の勉強をしなさい。
ちょうど十月の末に、自分がライヴ・レコーディングをする現代音楽のコンサートを大阪でやるから、ぜひ見に来なさい」なんとも高圧的で、ムカッ腹の立つ内容だったが、年が十四も離れている上に、兄は音楽大学の作曲科を出たプロ。頭のあがるはずもない。
ぼくは、子供のころからピアノの上達が早くて、中学のときにはもうリストを弾けるくらいの腕前になっていたが、そのころからロック病にとりつかれ、高校では、学校の仲間と五人でロックバンドを組んでいた。
ぼくは、少し前のELPやイエスのような、ヨーロッパプログレ志向だったけど、あとの四人は、それはもう情けないミーハーロックファンで、妥協の結果 は、イントロと間奏、後奏だけがプログレで、歌メロは単純なディスコパターンという恥かしい、チンケな代物だった。
帽子とベルトと靴は、ヨーロッパ超一流の凝ったセンスのものなのに、着ているものときたら、カジュアル・バーゲンもいいとこといった感じだ。
兄の手紙を読んだぼくは、ずいぶん迷ったすえ、バンドリーダーとして、全員にそのコンサートを聴きに行くように号令をかけた。
兄の言葉をそっくり受け売りにしたのは、いうまでもない。
しかし、高校も三年ともなればなにかと忙しく、バンドも解散寸前、ということもあって、ギターのスギサクと、ベースのチータは欠席。結局、集合の梅田駅に来たのは、いちばん進学には縁のない、ドラムのゴンベエと、唯一の女性ヴォーカリストのミーコだけだった。
ゴリラのような体格なのでゴンベエと呼ばれているドラマーは、しかし見た目とは正反対に気の良い男で、勉強ぎらいのドラム狂いが昂じて、最近は学校にも姿を見せず、将来を夢見て大阪の三流ロックバンドの坊やをやっている。
ミーコは、これはもう正真正銘のアホで、バンドをやっていながらロクすっぽ音楽も聴かず、わかりもしないのに、ジャニス・ジョプリンをやりたいと言っては、我々を手こずらせて来たのだ。
唯一の取り得は、小柄でキューティなところ。それにしても、ギターのスギサクと簡単に出来あがったりするようなパープリン娘で、本心では、ぼくの方が好きなことがわかっているから、クビにしなかっただけのようなものである。
それにしてもぼくは、三人の服装を見て、くらーい気分におそわれた。
上下つなぎのジーンズに、ドラムのスティックを入れたナップザックを下げているゴンベエは、まるでペンキ屋の小僧そっくりだし、ミーコの方は、背中にセーターを背負って、汚いハーレムパンツという、例のアホ丸出しの格好。どう見ても純音楽を聴きに行くスタイルではない。
せめてぼくのように、ブレザーくらいは着て欲しいものだが、アホに何を言っても始まらないので、黙って会場へむかった。関西の財界の雄、愛沢氏を記念して作られた愛沢記念会館は最近でき上ったばかりで、大小二つのホールがあり、我々のめざすコンサートは、そのコケラ落としての催しのひとつでもあった。
五時少し前に広い前庭につくと、小雨にもかかわらず、すでに若者の長蛇の列が続いていたが、それはアメリカの有名なヘビメタグループの出演する大ホール目当ての行列であった。
あっちの方がええなあ、という二人を、アホ、ぼくら、純音楽を聴きにきたんやないか、差ァつけてんねんぞ、といいながら「現代音楽展」と看板の出た、誰も並んでいない小ホールに二人をせき立てながら、ぼくの心中は、実は不安で一杯だった。
日頃、バンドの連中には偉そうなことを言いながら、実際、ぼくだって現代音楽なんて聴いてはいなかったし、はたして理解できるかどうかの不安がある上に、少しでも知ったかぶりをして着た以上、二人からどんな質問の矢が飛んできても、見事に返答しなければならない、はたしてそんなことができるだろうか、いや、できるわけはない、今さら反省したって、もうおそい......、いやはや......。
着いたのは五時と、少し早かったが、なにしろただで入るために関係者を装っているので、さっそくぼくたちは第一楽屋に兄をたずねて行った。
部屋には所せましと録音機材がならび、忙がしげな人いきれでムンムンの中、兄はテレビモニターを見ながら、ステージをどなりつけている。
「わあ、すごい! 三十二チャンやんか、ドキドキするなあ」
というゴンベエに、
「アホ、もう世のなか、四十八チャンや、もっと進んでるでえ」
と、実はぼく自身、三十二チャンネルのテレコを見るのも初めてなのに、兄からの受け売りの知ったかぶりをしていると、その声で気づいた兄が振りかえり、気持ちの良い笑顔を浮かべながら近づいてきた。
つれてきた二人をどう思われるか心配していたぼくは、愛想のよい兄の応対にホッとした。
「きょうは、色々とおもしろいことがあるぞ。みんなワクワクして聴いてろよ」
といいながら客席に案内してくれる兄を見て、ミーコがぼくをつついた。
「うわさ通り、ええ男やんか」
ミーコはアホだから、男を外見でしか見ない。少々くやしいながらも、しかし兄をほめられて悪い気もしない。
兄は東京のレコード業界では、いわゆる「売れ線」のバリバリのディレクターとして通 っており、最近の解散コンサートで東京ドームを一杯にした「ザ・ピンクス」や「ニューロマンサー」などを次々と手がけてきたので、日頃からみんなに自慢していたのである。
ステージ上は、ゲネプロのまっさい中と見えて、黒服の五人の弦楽奏者たちと、顔も服もどぶ鼡色の初老の男が、打ち合わせをしていたが、何やら険悪な空気が漂っていた。
一人のバイオリン奏者の、
「先生、しっかりして下さいよ」
という苛立った声がきこえ、同時にチェロ奏者の、いかにも当てつけがましい大きなアクビがきこえる。
兄がぼくたちにウィンクした。
「おっかしいだろ。なにやってるかわかるか?」
「......」
どうやら「先生」と呼ばれた、初老の作曲家が困った立場にあるらしいことはわかる。「あの作曲家はな、締め切りまで半年もあったのに、なかなか作曲ができなくてな、間に合ったのがなんと昨日の夜。プレーヤーたちは、必死になって朝からさらって、いま、最後のステージリハ。
実にひどいもんだ。あれでも名前をきけば、びっくりするような有名な人物なんだからねえ」
ステージでは舞台監督とおぼしき人が、もう時間のないことをしきりに訴えている。
「その上にな、あの人は才能がないのか、自分の曲の演奏が正しいのかまちがってるのか、さっぱりわかんないのさ。きのう渡された譜面 だろ。演奏者にはわからない所だらけ。ふしぎなことに、作曲家本人もわからないときている」
あきらかに不利な立場の作曲家が、やたらと平身低頭しているうちに、演奏者のリーダーが大声をあげた。
「おいおい、もういいかげんにしよう。やるんだよ、グダグダ言わないでとにかくやるっきゃないの。初演だろ、まちがいなんて、誰にもわかんないんだよ。平気、平気。ねっ、先生」
こんなことで大丈夫なのかと、ひとごとながら心配になると同時に、ぼくは初めて、自分の作曲をバンドで演奏したときのことを思い出してゾッとした。
二人にその時のことを思い出されては困るので、ソッと振りむくとミーコは、 「こわいコンサートやねえ」
と、ある種、的確なことを言った。
ゴンベエの方もまるで見当はずれに、
「あんなあ、マイク、あんなに立ってんのに、PAせえへんのかあ」
と質問する。
「あんなあ、あれはライヴ録音用のマイクや。だいいちなあ、純音楽ちゅうもんは、PAせえへんもんや」
「ほな、PAするやつは、不純音楽やちゃうんか?」
こまった質問は無視してステージを見上げると、体中が胃下垂の狐のようにみえるソプラノ歌手が登場してきた。
兄は、すでに笑いをかくし切れない様子でぼくにささやいた。
「つぎの曲はな、今日の目玉商品で、都聖一の曲だよ」
いくら現代音楽を知らないとはいえ、都聖一の名前くらいはよく知っていた。
海外でも数々の賞をとり、若手作曲家として、いまいちばん期待されている有名人物である。
ぼくはここで、前々からふしぎに思っていたことを兄に質問した。
「おにいちゃんね、売れ線やろ、なんで現代音楽担当してるの?」
兄は、一瞬しかめつらをした。
「オレは、あの都聖一と大学時代の同級生なんだ。いつもやってるジャンルとはちがうっていうのに無理矢理たのみこまれてなあ、そのくせ、アイツときたら......」
あの有名な都と同級であるばかりか、なにかイヤなことがからんでいるらしいことにビックリしてステージを見ると、プレーヤーが六人、下を向きながら、生気なく登場してきた。
そのなかの一人を見て、ゴンベエはブッ飛んだ。
「ヒエー! 森山さんや。信じられへんわ、こんなところの出るなんて」
打楽器席にすわったのはなるほど、ゴンベエの日頃から尊敬してやまないジャズ・ドラマーの森山純であった。
「かれもぼくの一年下でね。ライヴのゲストとして頼みこんだんだ」
兄が得意気に話しているうちに、ステージでは狐嬢がウガイを始めた。するとそこに、都聖一がさっそうと現われた。
あまり背は高くないが、すこし長めの髪に細面、上下黒のスーツに少し覗かせた赤いスカーフ。全身これ一分のスキもなく、やや近よりがたいフンイキすらあり、ぼくの脳裏には一瞬、フランク・ザッパとポール・モーリアの写 真がよぎった。
ミーコは案の定、
「まあ、カッコウええわ、都倉俊一みたい」と、アホな、半分は的確なことを言う。
ゴンベエはといえば、もう興奮のあまりか、生唾をのみこんでいる。
都氏は、周囲の状況を充分のみこんだかのように、自信たっぷりに作りものじみた甘い声を出した。
「せっかくですが、リハーサルはやめにします。こういう曲は、やればやるほど新鮮さがなくなるものでしてね。本番での緊張感、それだけがこの曲のいのちなんだから」
狐嬢はやや落胆したが、楽器プレーヤーたちはどっと喜び、色んな音を出した。
すると、やや離れたところにいた舞台監督があわてて飛んできた。
「先生、こまるんですよ、録音のバランスが.......」
「ああ、レコーディングね、そういえば、そんなこともやるんだっけね。でもいいの、肝心なのは本番だけ」
「そのためにも、少しくらいバランスをいただかないと」
「きみ、くどいね、だいいちぼくの曲は、ステージ上のみんなが、自由に歩きまわったりするんだよ。どうやってバランスを取るんだ、バカバカしい。ミキサーにそういってくださいよ」
演奏者たちはなぜか、ワーッと喜びながら控室の方へ戻っていった。
「な、キザなやつだろ、あいつ。おもしろいから紹介しといてやるよ、楽屋へ行こう」
ミーコとゴンベエはどうしたものかと思ったが、結局いくところもなく、彼らもついてきたのだった。
楽屋の通路で都は、一見して良家の子女とわかるドレスアップした三人の若い女性にかこまれていた。
三十二にして独身、しかもあの雰囲気、もてないわけがない。
ミーコはすでにオロオロしている。内心、快感と同情がないまぜになったが、別 になぐさめを言うほどのことでもないので黙っていた。
近づいていく兄に気づいた都氏は、ホッとした様子で三人の女性からはなれた。
兄はぼくたちを紹介してくれたが、都氏の応対は実にそっけなく、とくにミーコとゴンベエには、明からさまに不快な表情を示した。立場上、ぼくも困っているところへ、丸いめがねをかけて小太りの、脂切った男が通 りがかり、都氏に声をかけた。
「おや、もう練習は終ったのか」
「ぼくは練習なし。ぶっつけ本番」
「さあすが外国育ち、カッコいいわ」
大した皮肉でもないのに都氏、ややムッと来たらしい。
「アメリカだろうが、ヨーロッパだろうが、カムチャッカだろうが、ぼくのやり方はいつも同じだ」
「ほ、ほう......いつもの例のインチキかね」「なんだい、その言い方は、ぼくはテレビ有名人じゃないからね、きみとは方向がちがうの」
まあまあと兄が仲に入ると小太り氏、
「インチキ書いて、女にもてて......」
と捨てゼリフを吐いて去っていった。
「失敬なヤツだ。たかが劇伴屋のくせに。きょうはすまん、ありがとう。ところで、例の件だけどさ、考えといてくれた?」
それまでニコやかだった兄の表情は一転、けわしさを帯びた。
「もうペンネームも考えてんだよ。二三曲持って行くからさ」
「本名でやればいいじゃないか」
「このぼくがかい? 冗談はやめてくれよ」
「本名で書かないんなら、その話はやめとけ!」
兄は、突然大声を出した。
一瞬ギクッとした都氏は、それでもニヤリとして、
「本番前にごめん、ごめん。こんどゆっくり飲もうや」
と、そそくさと立ち去った。
「あのやろう! オレの仕事をナメやがって!」
なにやらぼくたちは、まずいところに立ち逢ったようだった。
ぼくは、あわてて兄に話しかけた。
「さっきの人と都さん、仲わるいの?」
「いや、あんなのはジャレあってるだけ。ジャブの応酬よ。それにしても腹立つなあ、あいつ」
気拙い沈黙を破ってくれたのは、そこへ登場した森山氏だった。
「ねえねえ、こまっちゃったよ、イキフンちがいすぎ。どうしていいかわかんないよ」
その言葉をきいたぼくは、人ごとながら青ざめた。森山氏は、気が向かないと、ステージに穴をあけるのでも有名なのだ。
「まあ気にしないで。すぐ終るからさ。本番は例のアドリブ合戦、それだけを期待して頼んだんじゃないか。都なんか食いまくって、オマエの存在感だけ浮き上がれば充分なんだよ、大丈夫だよ」
いやはや、ディレクターとは大変な商売である。
何となく思い切りの悪そうな雰囲気を残して去って行った森山を見て、ミーコは適確なことをいった。
「なんや顔色の悪い人やねえ」
ゴンベエはといえば、尊敬する人を眼の前に見て興奮のあまり、硬直し切っていた。
「まあ、いろんなことがあって、今日のコンサートはおもしろいよ。最後までゆっくり見て行きなさい。途中で帰っちゃ駄 目だよ。とくに最後の曲はおもしろいんだから」
といって兄も去ってしまうと、我々三人は茫然とショボクレてしまった。
「純音楽たらいうのは、こわいもんやなあ」とゴンベエ。
「わたし寒うなってきたわ」
ミーコは場ちがいの服装に気づいて、背負っていたセーターをかぶり直す。
ショボクレたのはぼくだって同類である。 日頃の、リーダーとしてのプライドは、都氏たちによって木端微塵に吹きとばされてしまったのだ。
ぼくたちは、行くあてもなくフラフラと舞台の袖の方へ歩いて行くと、無口そうな職人風のおじさんが、グランドピアノの調律をしていた。
ぼくたちはそれを放心して見ていたが、ミーコが何気なくつぶやいた。
「このピアノ、なんぼくらいすんねんやろ」
無口そうに見えた調律師が顔を上げ、やや得意そうな笑顔を見せた。
「これ、スタンウェイの特注やからね、五千万くらいすんのちゃうか」
「えーっ! ウソー! ほんとー!」と、我々三人。
「なんやしらん、純音楽ちゅうたら高うつくもんやなあ」
ゴンベエの感心振りに我々は大笑いし、やっと気分もほぐれ、本番をむかえたのであった。五分おくれで始まったが、会場は八割くらいの入りであった。
ホールの責任者のシラケた挨拶が終り、司会役の現代作曲家協会の会長が出てきた。
「本日は、おいそがしいところを大変にありがとうございます。
さて、音楽の状況は、今やたいへんな岐路に立たされています。
大衆社会状況といわれるこの末期的な世相のなかで、音楽という名を借りた俗悪な騒音の反乱するなかで、いま真に純粋な音楽空間を追及しようとする我々一同......」
とそのとき突然、シラケ切った口調を断ち切るかのように、大ホールからの熱気あふれる拍手の音がかすかに伝わってきて、司会者は眉をひそめ、口を閉じた。
誰かが客席のドアを開けたらしく、新築のわりには建てつけが悪いのか、大ホールの音が洩れてきたのである。
ミーコがプフッと笑い、つられて客席に淫靡な笑いが拡がった。
司会者は気分を変え、立ち直った。
「まあ、いわば、このような状況にあるということでありまして、ではさっそく演奏に行きたいと思います」
本来、もっと長いはずの演説が短くなって、客受けは大層よかった。
一曲めは、都聖一にからんでいた、さきほどの小太りのおじさんの曲だった。
人はみかけによらないといえば、作曲者にはたいへん失礼だが、曲は、ドビュッシーとバルトークを混ぜたようなわかり易いピアノソナタで、ぼくは非常に親しみを覚えたが、ミーコはぐっすりとお寝みになり、拍手で目覚めると、
「純音楽は、眠たいもんやねえ」と、正直な感想をもらしたが、ゴンベエの、
「あの曲の弱い部分には、ものすごい感心したわ。ぼくいま、ドラムで弱い音に苦心してんねん。ああいう風に、キレイな弱い音出さんとなあ」という感想には、正直オヤッと思った。
二曲めは、ゲネプロでもめていた弦楽五重奏曲。
三十分にもわたる不協和音の連続には、正直言ってぼくには耐えられなかった。
プレーヤーたちは、いかにも自信たっぷりに完奏し、拍手に対して何やらおかしげな、皮肉っぽい笑みを洩らしていたが、その笑いの底にかくされている真相を知る人は、あまり居そうもないようだった。
ミーコはやはりグッスリお寝みで、その神経のタフさに驚かされる。
ゴンベエは、またもやしきりと感心した。
「弦楽器をあんな風に、打楽器的にやるのは興奮するなあ。それに、あの変拍子の連続は、ぼくのなかにはないもんやしなあ......」
ぼくは、ゴンベエの意外な面を再発見した思いで首をかしげたが、すぐに彼の本心がわかった。
ゴンベエはいい奴だから、一生懸命、理解しようとして、わかった振りをしているのだ。
ぼくはゴンベエのけなげさを、内心ほめたたえた。休憩のとき、ぼくは録音室に長居しすぎて次の曲には席に戻れず、舞台の袖で見ることにしようと思って着いてみると、もう司会者がしゃべり始めているのにもかかわらず、険悪な雰囲気が充満していた。
どうやら、ホールの管理人らしい人が、舞台監督をどやしつけているのだ。
「あれだけ言うたでっしゃろ! あれには、あれ使うたらいかんゆうて。そんな約束破ってまで無茶苦茶すんねんやったら、ワシにもアレがおますで」
兄の言ったおもしろいこととわこれかと思いつつプログラムを見ると、「プリペアードピアノと和楽器による和讃NO31」とある。
「そやから、言うたでしょうが、あれには、スタンウェイあかん言うて」
舞台監督は、ただひたすら謝まりの一手である。
ステージでは二台のグランドピアノが向きあい、二人の演奏者が、せっせとピアノの中に変な仕掛けをしている。
プリペアードピアノというのは、ピアノの弦の間に、鉛筆や消しゴム、ドライバーに洗濯ばさみといった、こまものの異物を差しはさんで、ピアノの音色を変えてしまう奏法をいう。
どうやら、事前の約束では、特別に持ちこんだ日本製のピアノだけでやるはずのところを、本番では約束を破って、あの入念に調律した五千万円のスタンウェイにまで手術を施しているらしい。
やがて管理人もあきらめ、いかにも意味あり気な演奏が始まった。
休止符の多い散漫な譜面らしく、指揮者の合図で、なかば即興的に、尺八・ビワ・太鼓・お化けピアノの音がぶつかり合う。
二人のピアニストは、気のせいか、いつもやたらフォルテシモで叩くように見えるので、ぼくですらいういうするうちに、二十分くらいたったところで、ひときわ大きく叩かれたスタンウェイのあるキーの弦が大きく悲鳴を上げてねじ切れ、ドライバーがピアノの中から飛び出してステージにゴロゴロと転がりおちた。
最悪の事態に、管理人はワッと叫びながらどこかへ駆け去って言った。
しかし、客も客、演奏者も演奏者というか、ステージ上は、まるで何事もなかったかのように平然と進行し、しばらくして曲は終った。
どうなることかとハラハラしながら席に戻ってみると、ゴンベエがまたも、しきりと感心する。
「いまのは最高や。山下洋輔に見せたいわ」
そこまで言うのは、ちとホメ過ぎではないかと思ってミーコを見ると、 「ねえ、山下洋輔ってどんな人?」と、またアホなことを言う。
次は、上品な様子の女流作曲家本人のピアノとその妹のバイオリンによる演奏で、本来ならば鎮静財になり得るような、ほぼラヴェル風の叙情的なバイオリンソナタだったけど、さっきと同じスタンウェイを使ったため、それは見るも無残な結果 に終り、さすがのゴンベエもミーコも無言のままで、何のコメントもなかった。
そして、いよいよ当日のクライマックスで終曲の、都聖一作曲「蝕」に移った。
プログラムの都の言葉は、さすがと思わせるほど哲学的で、ぼくには半分も理解できなかった。「カオスの中に収集する微妙な音たちの、存在と死。
及び、行為的な人間の脳裏に去来するのは、その誕生とうめき。そして非業の死。
これは、一種のシジフォスの神話ともいえる。
極端に矮少化された行為としての、コムポーズとパフォーマンスの相関と敵対。 この曲には、構築された緻密な音符と、無意味に近い極限的騒音が、交互に相姦する。
日常的な頽廃した音と、極度の緊張を帯びたソノリティの相克。
私は敢えていえば、このパフォーマンスにおいて狂的な状況のかもし出されることを願う。
そして、ステージ以外で派生的にいかなる音空間が醸成されても、それは一切、私の預かり知らぬ ことである」この曲こそが、例のCDの、謎の主役なのだ。
イントロは、森山ともう一人の打楽器走者による、ビールビンやホイールキャップ、ドラム缶 等の、ガラクタ楽器のトレモロで始まった。
時間をかけた異様な音のかたまりが突然中断されると、狐嬢はコップを取りあげ、ゴロゴロとウガイを始めた。
何事がおこるのかとビックリしたが、回りの客に驚いた反応はほとんどなく、現代音楽にはよくあるパターンらしい。
そして及そ五分にわたって、狐嬢の独壇場がくりひろげられた。
うめき、
のけぞり、
あえぎ、
よじり、
身悶えして奇声を発するそのサマは、まるで彼女のお産の苦しみを見ているようで、奇怪さと滑稽さをこらえ切れなくなったぼくは、時々ハンカチで口を押さえて忍び笑いをもらした。
アホのミーコは、それは素直なもので、ぼくの横腹をつついては、ケタケタと本気で笑い出した。
ゴンベエはと見れば、こちらは森山に注意力を奪われているのか、思いつめたような表情でステージを凝視している。
そのうち、おもちゃの猿のシンバルのようなピアノの連打が加わり、トロンボーン奏者が変な音を出しながらピアノに近づいて、ピアノの内部に向かってブワーブワーと雄叫びをあげ始めた。ペダルを踏みっ放しにしているピアノの共鳴を誘うためなのだが、あまりにもマンガチックなトロンボーン奏者のふるまいに、ミーコとぼくはもうたまらず、ゲラゲラと声を出して笑いころげた。
すると突然、前の席にすわっていた、いかにも教師然とした女の人がキッとこちらを振り向き、怒り狂った般 若のような形相で、身も凍るような殺人的な視線を浴びせかけた。
おかげでぼくたちは、たちまちのうちに、ショゲ返ってしまった。
そうだ、これは純音楽なんだ、笑ったりしてはいけないんだ......。
そう思ってステージを見直すと、それは、たちまちのうちに意味ありげな暗黒の儀式のように見えてくるからふしぎだ。
そのうち、意地でも反応を見せまいとするかのような観客の異様な沈黙を飲みこんだホール全体が、ある種の荘厳さに輝き出したように思え始めたとき、突然大きな音を立てて脇のドアが開き、異形の男が出現した。
ダブダブの縞もようのズボンの上に巻いたさらしの腹巻き、びっくりするような大柄の悪趣味なシャツにサングラス。絵に描いたようなマンガチックな悪党風で、この会場にはあまりにも似つかわしくないチグハグな姿だった。
その上、下駄ばきで大きな足音を立て、ウォッとかウェッとか叫び、通路を歩きながら一人の女性に毒づいた。
「おいネエちゃん、なにがおかしいねん。えっ、オメコどついたろか」
カランコロンと足音も華々しく、男はいちばん前の空席にドカッと座り、目の前のステージの壁に下駄 をつっぱって大声を出した。「なんか知らんけんど、おもろいことやってみいや」
ステージのプレーヤーたちは、さすがの椿事に仰天したのか、ものすごい大音響の洪水。まるで、ゴミ収集の車をひっくり返したような騒ぎである。
男はしばらく我慢していたようだったが、やおら立ちあがって、観衆の方に向きなおった。
「なんやねん、これはなんや! お前ら、これおもろいんか、えっ! お前ら、気ィ狂てんのんか、どこがおもろいねん、こんなキショクの悪いもん」
男は言い放つと、右足の下駄を脱ぎ、ポーンとステージに向って放りあげた。
ワーッと叫んで狐嬢は逃げまわり、演奏は中断し、ガラガラコロコロとステージを転がる下駄 の音だけが会場にひびきわたった。
男は、カラーンペタッとびっこをひいて帰りながら捨てゼリフを吐いた。
「アホやからわからへん、かーえろ、
アホやからわからへん、かーえろ。」
男が去って、シラケ切った中で演奏が再開されたが、そのうち一人立ち、二人立ち、バラバラとお客は去って行ったが、演奏はなかなか終わらなかった。もともと終りのない曲なのかもしれない。
ほとんどの客が去っても、毒気にあてられたぼくたちは、無言のまま客席にへばりついていた。
ぼくはぼくで、異様なできごとへのショックとは別に、大いなる不安の種をかかえていた。
今のハプニングは、曲の一部なのか、突発的なものか判断できず、そのことをミーコやゴンベエに質問されても、答えようがないからなのである。幸いにも彼らの質問もなく、楽屋をのぞいて真相がわかった。
憤怒と汚辱にまみれて、青黒く怒脹した都の、兄たちに叫んでいる大声がきこえてきたのである。
あのダンディなムードのひとかけらも今はなく、見てはならないものを見せつけられているようであった。
「責任者を出せ! なんだ、ここの管理体制は! ヤクザが堂々と入って来やがって!
今日のライヴはボツだぞ。絶対にCDにするな」
しかし兄は意外と平静だった。
「気持ちはわかるが、貴重な大金がかかってるんだ。そういうわけにはいかん」
「じゃ編集しろ、あの部分はカットだ」
「ライヴ盤で、変なカットなんかできるわけないじゃないか」
「なんだと! あのまま売りものにする気か、キサマ、名誉棄損で訴えるぞ」
「ああ、どうにでもしろ。なさけないやつだな、お前は。プログラムになんと書いてある、ステージ以外でどんなことがおこっても関知しないとあるじゃないか」 「オマエ、キサマ、このー......」
痛いところをつかれた都は、二の句もつげず、口をパクパクさせている。
「あれ、やっぱりヤクザやってんねえ」
ミーコの声でハッとしたぼくは、とっさに一切が説明できるような気がした。
「たぶんなあ、どっかの親分が、自分とこに挨拶がなかった演歌のコンサートになあ、子分派遣しよったんや。それがなあ、子分が会場まちがえたんとちゃうか」
「でも、あのヤクザ、格好よかったわ」
「なにが?」
「そやかて、わたしのいいたいこと、全部言うてくれたもん。アホやからわからへんゆうて」
ぼくは一瞬、自分が何のために号令をかけて連れてきたのか忘れて、大声でミーコに共鳴して笑った。
「そうかな、それでええんやろか」
ゴンベエがマジな顔をして口をはさむ。
「アホやからわからへんのは、ぼくかて一緒や。そいでもなあ、アホやからゆうて、なんでもわからへんゆうてたら、あかんのんちゃうか。アホはアホなりに、わかろうとした方がええんちゃうか。そやないと、向上心ゆうもんがあらへんやないか」
ぼくはドキッとしてゴンベエを見た。しかしかれはドマジメだった。
ぼくは段々と顔の赤らむのを覚えながら、日頃から勉強のできないアホのドラム狂いだとしか思っていなかったゴンベエのことを真底見直し、ゴンベエが先きゆき、立派なプロのミュージシャンになるだろうことを予感した。以上が、例のCDに関する音楽会の実況風景である。
音楽広しといえども、こんな珍盤は空前絶後だろう。ライヴコンサートに予期せぬ 出来ごとはままあることだが、それにしてもヤクザが乱入してくるとは。
普通なら発売を見合わせるか、ヤクザの登場の部分は編集でカットするか、が常識的な対処なのに、兄は敢えてそれを無視し、敢然ライヴ盤を発売してしまったのだ。
いくら売れ線ディレクターで強気とはいえ、会社の内部でも問題にされないはずもないだろうに、兄のその真意たるや......。
しかし、事件の真相は、意外や意外、見事なドンデン返しがあった。
コンサートが終って、兄に連れられて行った焼き鳥屋の二階で、なんとあの珍妙なヤクザに出逢ってしまったのだ。しかもそのヤクザが、兄の親友だったのである。
という言い方はしかし、半分正しく、半分ウソだ。
その男はたしかに兄の親友だったが、実はヤクザでもなんでもなく、大阪出身の中堅イラストレーターだったのだ。
要するにあのハプニングは、兄たち二人の仕組んだ芝居だったのである。
話によれば、二人はともに純××とか、現代××と名のつくものが、大嫌いだそうである。
イラストレーター氏は、ある権威的な美術賞に自分の作品がノミネートされたとき、さる高名な評論家に、この権威ある賞を、商業美術ごときものにはやれないといわれて、みごと落っこちたという。
なるほど、それなら二人の心情、立場はよくわかる。兄はそれこそ売れ線の商業音楽屋なのだから。
二人は日頃から、権威主義的で偽善的な、いわゆる芸術めいたものを徹底的に茶化すチャンスをねらっていたという。
そんなとき、兄は都聖一からレコーディングを頼まれたが、それもかなり強引だったらしい。
そして、ことが決まってからの都は、手のひらを返したように、よそへ行っては、アイツが頼みこんできたから、イヤイヤやらせてやるんだと吹聴してまわり、あげくに兄のところへ来ては、自分にもポップスを書かせろとせまったという。
いやはや、なんという汚らしい連中の集団、想像を絶するその偽瞞ぶり......。 ぼくは瞬間的に音楽業界が大きらいになった。そして、一見、正しそうに見える兄のやり方、ものの言い方にも段々と腹が立ってきたのだった。
たしかに都という男は、見かけとは正反対に、卑劣で汚い人物だ。そんな制裁を受けても知ったこっちゃないが、ぼくたち何も知らないお客まで巻き添えにすることはないだろう。
いくらアホとはいえ、いい面の皮のミーコや、とくにゴンベエのあの反応。
腹を立てたぼくはワーワー言ったが、兄には兄なりの、もうひとつのちゃんとした理由があった。
日頃から、自分の手がけたものは必ず売れるという自信があったが、今回のものだけは、そのままではどうにも売れる目途が立たない。それで、ちょうど良いチャンスとして、売りものになるハプニングを仕立てたんだということだ。
あまりにも身勝手すぎる言い分に、いっそう腹を立ててぼくは喰ってかかったが、兄は苦笑しながら言い切った。でもこのCDは必ず売れるぞと。兄と別れてからひと月あまり、ぼくは極端に落ちこんでしまった。
しかし根が陽性なのか、そんな気分も長くは続かず、段々と回復してくるにつけ、ようやく兄の真意が見えてきたように思えた。
兄はぼくに、赤裸々な音楽業界の内幕をさらけ出して見せてくれたんだと思う。そして、それでもよければ、覚悟して音楽の道へ進めと。
実のところは、それほど大げさなものでもないだろうけど、そういう風に思うと、ぼくの気持ちはすっかり楽になり、ピアノに向っても肩の力が抜けて、いい調子で受験できて、みごとに受かったのだ。
これからも片意地はらずに、楽な気持ちで音楽を続けようと思う。
ところで都氏はといえば、あとで兄の゛ヤラセ゛のことを知るに及んで激怒し、兄と対決したという。
しかしそれも、ペンネームで、はやり歌を作るということで解決がつき、もうすぐ、さるポップスシンガーのシングルCDが出ることになっている。いやはや。
ミーコは、アホな女の子の行くような短大に入った。
ゴンベエは最近、根性だして上京してきて、憧れの森山さんの坊やに成ったという。近々逢ってみるつもりだ。
アルバムも、兄の思惑通り、その種のものとしては予想外の売れ行きで、毎日ほくそ笑んでいたものだ。
しかし、ここ二三日様子が変わり、多少、複雑な顔つきをしている。
あのCDをアメリカの送ったところ、特に都の曲が大好評で、しかもあの会場に乱入してきた男は何を叫んでいるのかとの興味津々の質問が来たという。
本当のことは書けないので、状況だけの説明を送ったところ、さすがアメリカ人は察しが良く、ヤラセにはすぐ気がついたと見えて、そこまで考えついたディレクター氏ともどもアメリカに招待して、ぜひ都氏の曲の再演をしたいという。
都氏が、いかにも軽薄に喜びの絶頂に達したのはいうまでもないが、兄貴は複雑な思いに駆られている。
どうせ自分の身から出た錆だ。うんと悩めばいい。
しかし、あのタフな兄貴のことだ、結局はアメリカへ行くことになるだろうと、ぼくは思っている。終
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